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鬱に戻らないためならなんでもやる。

鬱が良くなってから約半年が過ぎた。
私は鬱が完治したと思っていたのだが、
先生曰く、双極性障害Ⅱ型の躁状態になっているだけ、とのことだ。
治ってなくても、なんでもいいが、
あの苦しい鬱に戻るのだけは絶対に嫌だ。

なので、鬱に戻らないためなら、なんでもうやる覚悟でいる。
鬱にならないなら太っても構わない。

とにかく自分が「楽しい」という感覚を保てるように、
また、ストレスを感じることからは極力逃れるように心がけている。
なぜなら、鬱の時には食べることも何もかも、楽しめなかったから。
「楽しい」と思えること、「わくわく」する感情。
それが実は当たり前のことではない、と鬱になって知ったから。
それは人間にとって、本当に尊い感情なのだ。

なので、太っても構わないから「食べたい」と思ったものを
「食べたい」と思った時間に食べる。寝る前でも関係ない。

観たい!と思ったYouTubeやNetflixを観たい!と思った時に観る。
会いたい!と思った友達に久しぶりでもなんでもいいから、会う。
手が貧相だな、と思ったら、ネイルサロンに行く。
顔が辛気臭いな、と思ったら、
美容外科にボトックスでもヒアルロン酸でも打ちに行く。
お金はかかるが、
鬱に戻るぐらいなら、貯金はなくてもよし、とする、なぜなら、
鬱になったら働けなくなってしまうから。

また、行きたくないな、と、思ったら、
仕事も休むし、予定もキャンセルする。
逆に気分が乗っているときは職場に誰もいない時間を見計らって、
休んだ分や、やる気がなくて出来なかった日の分の仕事を夜までやる。

あと、私はアイシングクッキーを作るのが、好きなので、
気分が乗っているときは徹夜して100枚ぐらい作ることもある。
そして、仲の良い友達や職場、教会で配ったりしている。
完璧、自己満足なんですが…。

私は基本、無宗教だったのだが、
母が亡くなる前からキリスト教伝道師の方のYouTubeをたまたま観ていて、母が亡くなる前と亡くなった後に、精神が崩壊したので、
誰かに助けて欲しくて、藁にもすがる思いで、
その方にメールと手紙を書いて、助けを求めた。
話すと長いのだが、その方に助けてもらい、
プロテスタントの教会に通うことになった。

諸事情により、別のプロテスタントの教会に移り、
昨年夏、洗礼を受けた。
だが、洗礼を受けたあとも、特に私の孤独病が治ることはなかった。
なので、正直に牧師さんにその気持ちを伝えた。

「私は洗礼を受けたのに孤独な気持ちが治らないのですが、
 信仰が足りないのでしょうか?」

すると牧師さんはこうおっしゃった。

「ふつう、付き合いがまだ浅い友達のことって、
 最初から信頼したりしないですよね?
 いろいろな経験を通して、少しずつ信頼していくものじゃないですか?
 神さまとの関係も、それと同じで、様々な経験を通して、
 信頼関係を深めていくものなんですよ」

「そうなんですね!!!」

まさか、そういう答えが返ってくるとは思っていなかったので、
自分は聖書の勉強が足りないからかな、いじけていたので、
なんか、こう、すっきりしたというか、安心したような、
晴れ晴れしたような気持ちになったのを覚えている。

たまたま、その教会にいらっしゃる方々は
本当に優しくて、思いやりがあって、
私の鬱が酷くなって怖くて教会に行けなかった時も、
家まで心配してお見舞いにもきてくれました。
私が孤独から解放されるように何度も何度も祈ってくれました。

私が神さまの存在を感じられない、と正直に相談すると、
ある信徒の方は

「神さまはいつも潮風さんの近くにいて、
 いくら潮風さんが一人になりたくたって、なれないんだよ。
 トイレぐらい一人で行きたい、と思ったって、
 トイレにもついてきちゃうんだから」

と教えてくれたのです。
私のなかで、「トイレのなかにまで」というのが
妙に刺さって、
「そっか~!!そうなんだ!!」という気持ちになったのです。

それからは、自分にはいつも神さまが一緒にいてくれるから、
一人じゃないんだ!!と思うようになったのです。
神さまの存在を信じるとか、
感じることは他人がいくら強要しても出来るものではありません。
あくまで、自由意志じゃないとだめなのです。

鬱だったこともあって、聖書を読むのはすごく苦手でしたし、
そもそも内容が難しいです。
今も、真剣にコンスタントに読んでいるわけでもありません。
なので、優秀なクリスチャンとはとても言えません。

ですが、「これだ!」とまた、響いた箇所をみつけたのです。
それは

「父母はわたしを見捨てようとも
主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」詩編27-10

の、箇所です。
私にはもう父も母もいません。
でも、神さまがついていてくれるのです。

神さまを信じる人生と
信じない人生があったら、信じる人生のが絶対いいよね、と思ったのです。

また、

「友のふりをする友もあり、
 兄弟よりも愛し、親密になる人もある」箴言18-24

の箇所は
妹が結婚してから今までのように
何でも話せる関係ではなくなって、
とても喪失感を抱いていた私にはとてもありがたいメッセージだった。
私には両親にも妹にも頼れなくても
友だちが居るじゃないか!!
そんな、大切な気づきを与えてもらったのです。

とにかく、鬱に戻らないためなら、何でもやる。

また、私はメンタルを鍛えるために、
なんの用事もない日でも、
一人でランチを外食するように心がけている。
私の地元のインドカレー屋では780円でランチセットが食べられるし、
ラーメン屋でラーメン一杯食べるだけでもいい。
おひとりさまの何が悪いんだ!!と思えるようになるし、
鬱の時は感じられなかった旨味も存分に楽しむことができる。

noteも、「書きたい!」と思ったら、深夜でも関係なく、書く。
誰でも、いつまで生きられるかも、病気になるかもわからない。
また鬱になるかも、わからない。

なので、「やりたい!」と思ったことは
先延ばししないで、すぐやろうと思う。

神さま、今日も平和に一日が過ごせたこと、
ありがとうございます。
noteが書けたこと、
食べものがおいしく食べれたこと、感謝します。





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