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「観音菩薩になろうの会」って何するの?音活のすすめ。

あの日、私の心の扉は全開だった。
まさに観音開きだった。

だから私は無意識に「観音菩薩になる」と言っていて、その勢いのまま、「note」を始め、
導かれるように、「観音菩薩になろうの会」
を立ち上げていた。怒涛の展開。
こんなに素早く行動したのは恋愛以外で初めてではないだろうか。

いつからだったかはっきりしないが、
今年に入ってからなんとなく、
『観音菩薩になって生活してみたらどうだろうか?』と思い、時々こっそりやっていた。

勘違いしてほしくないのだが、
「観音菩薩になって生活してみる」とは、
観音菩薩のようになりたいとか、観音菩薩みたいな人になりたいとか、そんな聖人君子のような大それたことではない。もちろんなれたら最高なんだけれども、畏れ多過ぎてよう言わんわである。

去年、念願だった滝行に行って分かったことは、どんなに素晴らしい体験をしてもすぐに通常の自分に戻ると言う事だ。
滝に打たれてる間は、あまりの衝撃と寒さで、息を止めてしまわないように声を出し続けることと、押し潰されないように立っていることだけで精一杯。次第に平衡感覚がなくなり頭は真っ白、上下もわからなくなる。生命の危機を全身で感じ、究極の「今ここ」を体験した。
なんちゃって修行体験ではあるが、そのインパクトは絶大で、一気に心身共に目覚めたような、覚醒したような、心も体もミントになったみたいにスースー風通しが良くなった感じがして、それだけでも滝に打たれて良かったと満足はしたのだけれど、だからと言って過去や未来を行ったり来たりする煩悩だらけの自分はそのままちゃんと鎮座していて、まったくもっていなくならないわけで、滝行後、温泉に浸る頃には、雑念の塊、煩悩の巨人にすんなり戻っていた。
観音菩薩のようになるなんて、本当によう言わんわである。

なので、

「観音菩薩になって生活してみる」とは、

「観音菩薩みたいになる」ではなく、
  
    そういうことではなく、

「ひとつ今から観音菩薩になってみよう」

という、『なったつもりでやってみる』活動。小さい頃たくさんやった、ごっこあそび。

そこで思い出したのが、「亀は意外と速く泳ぐ」という映画の上野樹里ちゃんで、平凡な主婦がいきなりスパイになって生活してみたら、単調な灰色の毎日が違って見えた、みたいな話だったと思うんだけど、そんな感じで、観音菩薩になったつもりで、そういう心持ちで世界を観てみたらどうだろうかという試みだ。

   「観音さまとは、あなた自身である」
    「あなたも私も観音菩薩」

観音経の本を読めば、同じ様なありがたい言葉にたくさん出会える。 
私は、「人はときどき、誰かにとっての観音さまだなあ」と思ってきたので、この言葉に巡り会えた時は、なんともうれしく、やっぱり、そうだよね、うんうんと何度も頷いた。

そこからだいぶ月日は経つが、今年に入って、「じゃあ意識してやってみたらどうだろうか」と、思ったのが全ての始まりだ。

なので、「観音菩薩として生活してみる」とは、心におわす観音菩薩を意識して、感じて生活してみるというのが基本なんだけれど、これが思った以上に難しい。意識した次の瞬間もう忘れてしまってというか、無い。消えてしまっている。やはり素人にはなかなかハードルが高い。どうやら無意識の時にはおわすけれど、意識すると雲散霧消してしまうものらしい。

そこで考えついたのが、『なったつもり』方式。アメリカ人になったつもりで英語を話してみるとか、スパイになったつもりでスーパーマーケットで買い物をしてみるみたいな。
とりあえず、観音菩薩になったつもりで生活してみる。この『つもり』がポイント。
しかし、やってみると分かるが、これも、長くは続かない。だけど、観音菩薩とシンクロするよりは、続く。そして、なんと言っても、やりやすい。

例えば、この間あった「つもり」話。

山の手線がホームに滑り込んで来る。朝のラッシュまではいかないが混んでいる。
「嫌だなぁ、乗りたくないなぁ」
と心で悪態をつく。ストレスを感じる。体が硬くなり顔が険しくなるのがわかる。

乗り込む直前、

「あっそうだ、観音菩薩になったつもりで乗ってみよう」

と思い立って、電車に乗り込む。

まず姿勢が良くなる。息が楽になり、負の感情が消えた。視界が開けたような感じになり、世界を見渡せるような気持ちになった。世界と言っても、電車の車両の中なんだけれど。人、人、人。重なるようにいるたくさんの人。一人ひとり観ていく。圧倒的にスマホを見ている人が多く、みんな下を向いている。私がまさか観音菩薩活動をしているとは誰も気づかない。だけど、なんだろう、さっきまで、みんな邪魔ないらない存在だったのに、『なったつもり』で観てみると、一人ひとり、みんな頑張って生きてるなぁ、すごいな、愛おしいな、仲間だなって、勝手に共感していた。電車を降りる頃には「お互いに生きてますなあ」と養老孟司先生のフレーズまで浮かぶ始末。なんとも楽しい。

それだけではない。とんでもない『気づき』が舞い降りてきたこともある。

ある日、いつものように自転車で図書館へ行こうと、鍵のロックを外していると、ふと、

「よし、観音菩薩として自転車に乗って行ってみよう」

と思い立ち、観音菩薩活動をすることにした。略して音活(のんかつ)。

サドルにまたがり、ハンドルを握り、前を向く。背筋が伸びる。いつもより青空が近く視界が明るい。風を切りペダルを漕ぐ。見えている景色がいつもより鮮明で、木や花が生き生き輝いているのがわかる。自分も軽やかで、ものすごく気分がいい。

しかし、それも束の間。
一つ目の信号あたりから、ムクムクと頭の中の雑念があふれだし、いつもの、あーでもない、こーでもない、妄想会議が始まる。

その日ぼやぼやと浮かんできたのは、この世の中には、生まれてからたくさんプレゼントをもらう人と、そうでない人がいるなあ、この世は不公平だな、というもの。
多分これは、何年か前に友達から聞いた話からきていて、友人の旦那は一人っ子なのに、小さい頃から一度も誕生日会をやってもらったことがなく、プレゼントももらったことがなく、それが普通だと思っていたけれど、自分の子供が生まれて、当たり前のように誕生日会やプレゼントをもらう我が子を見て、悲しい気持ちになった、というなんとも切ない話で、人はいくつになっても子供の時の自分を忘れていないし、傷つく理由もいろいろあるものだなあと思い、強く印象に残っていた。しかし、なぜ急に自転車を漕ぎながら、そんなこと思い出したか全くわからない。

そこから、話は飛躍し、生まれた瞬間から祝福される子もいればそうじゃない子もいるし、世界を見渡せば今だって、過去に遡ればどこでも、プレゼントどころではない過酷な状況で生まれて死んでいった子供たちもたくさんわけで······、といろいろ考えていたら、なんでこの世はこんなに不公平で悲しいんだろうが止まらず、横断歩道も渡らず、自転車を止めて宙を見ながら考えに耽ってしまった。

信号が何度目かの青に変わった時、いきなり、あっと、思った。

あっ、でも、私たちは誰でも、生まれ落ちた瞬間からずっとプレゼントをもらい続けている。それも一瞬も途切れることも休むことなく。
青空から大きなリボンをつけた箱が数珠つなぎになってもらってくれるのを待っている絵が浮かび上がる。
なんで今まで気づかなかったんだろう。
毎日毎秒こんなにも祝福されていることに。

赤ちゃんはお母さんのおなかの外に出てきた途端、「おぎゃー」と産声をあげると思われているけれど、その前に、ちゃんと息を吸っている。まず初めに息を吸い、泣くことで息を吐くと、どこかで読んだことがある。

この世に飛び出てきた瞬間からずっとずっと届いていて、それからずっともらい続けているじゃない。

それは、どこでもいつでも誰にでも、あたりまえに溢れていて、ないことが無い。
気づかれないくらい、感謝されないくらい圧倒的なもの。有り難くさえ感じない。
そう言えば、太陽にはありがとうと手を合わせたり、感謝していたが、空気にはしてこなかったなあと思う。本当に有り触れたものは見えてこない。

なるほど、『空気みたいな存在』とはやっぱり最高の褒め言葉だ。

そう思って、息を吸ってみる。
贈り物が届く。
全てがあるという満たされた気持ち。
さっきまでの、この世界への不満はどこへやら、嘆いていた気持ちは今や、感激に変わっていた。
こんなにも祝福されている、なぜ今まで気づかなかったのだろうと、とんでもない幸福感に包まれたまま、夢見心地で図書館に着いた。

この経験は圧倒的で、私の年表があるとしたら、ここで以前以降と分けられるくらいの気づきだった。あれ以降、まだこの時の高揚感は私の中にあり、満たされている。なぜか羊水の中にいるような包まれている安心感も感じる。なんとも形容しがたいが、この世界がやさしくなった。


観音菩薩活動は面白い。思った以上に驚きと発見と喜びがある。
なんたって、ごっこあそび、とにかく気軽に出来るから、童心に返って『音活』を、一度やってみてほしい。おすすめします。

しかし、ここまで読んで下さった皆さんは、思うだろう。そもそも観音菩薩になってないんじゃないの?と。
たしかに、慈悲の心に到達するにはむしろ遠回りにも見える。ふざけすぎてる。
たしかにツッコミどころ満載なのだが、そこがいいのだ。とにかく敷居がめちゃくちゃ低いから取り組みやすい。それに『観音菩薩』や『観音さま』と心に思い浮かべるだけでも、なんとも気持ちが明るくなり、心強いことこの上ないではないか。

終活、婚活、朝活、推し活、様々な活動が流行っているが、『音活』もその中にまぜてもらえたらうれしい。

さて、まとめると、

「観音菩薩になろうの会」とは何か?

 観音菩薩活動をすること。

「観音菩薩活動」とは?

観音菩薩とシンクロする、または、観音菩薩になりきって活動してみる試み。

つまり、

観音菩薩になって生活してみること。
ときどき、たまには、いつでも、どこでも。

              
音活は自分を照らし、他者を照らし、世界を照らす。より良い世界へ。 

    「観音菩薩になろうの会」

     はじまり、はじまり。

      

               
                おわり

  

  

     







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