何でもない風景の向こう ー ピサロ「ルーヴシエンヌの冬景色」
こんにちは。パリ郊外在住の作者が、美術館で運命的な一期一会の出会いを遂げた作品について歴史や解説を踏まえつつ、自由に気軽に、時には脱線しながら綴る美術エッセイです。 マガジンのタイトル「カルト・ブランシュ(Carte blanche)」とはフランス語で「白紙(全権)委任」の意。レストランの「おまかせメニュー」のように自由度の高いクリエイションの表現として使うことの多い言葉です。
オルセーのとまり木
真冬の二月。
春支度に重い腰をあげる。今年は友人の持つ荒地に種をまき、菜園にしようという試みで、何十年も手つかずの傾斜のある土地を開墾する予定だ。あたりは雑木林。踏みしめる地面は落ち葉でふかふかとしていて、土の状態は悪くはなさそうだ。
少し高台にあるので見晴らしがいい。冬の湿ったパリ郊外の空気。草と土の匂い。樹々が芽吹き、葉が茂る季節が想像もつかないほどに長く続くパリ郊外の冬。ここで収穫を仲間と分かち合いたいと思う晴れ晴れとした気持ちにもまだ不安を感じるほどに厚い灰色の雲が空を覆う。
昼に近づくにつれ混み始めるオルセー美術館の印象派フロアだが、いつもさほど人溜まりが出来ていない作品がある。もし、作家本人が生きていればそれを口にするのははばかれるようにも思うが、ここに集められた絵は今から150年以上前の絵ばかりだから誰一人としてそれらの絵を描いた画家の耳に入ることはない。
人だかりの出来ない絵の作者の一人、カミーユ・ピサロ。
いや、こんな話からはじめようとしたのではない。しかし、彼との出会いの一枚はまぎれもなく、そんな雰囲気の中で対面だった。吸い寄せられるように彼の「Paysage d'hiver à Louveciennes /ルーヴシエンヌの冬景色」(1870年頃)にしばらく観入った。
追い打ちをかけて失礼だけれど、やはり一見あまりぱっとしない絵だ。パリ郊外の冬の雑木林。薄曇りの空に向かって力なくひょろひょろと空へ伸びている細い樹々。ドラマチックな要素はなく、どこにでもありそうな風景と言ってしまえるような絵。ただその分、リアリティがある。
なぜこの「平凡な絵」を私はじっと観入ることができたのだろう。そしてそもそもなぜこのような風景を彼は描いたのだろうか。
はっきりとした感覚があった。目に入った瞬間に強い「既視感」が感じられた。実際の風景をみてそう感じたことはあった。夢の中でみたような、デジャヴ。しかし、絵の中の風景に実際の風景を重ねたのは初めてだった。
ルーヴシエンヌに行ったことがあるわけではない。ましてや有名絵画の既視感とは違う。この一枚に出会うまで彼のこの作品はおろか、ピサロという作家についてもほとんど何も知らなかったのだから。
実はこの景色のような場所がパリ郊外には溢れていて、それは本当にとるにたらない風景だ。きっとそのためだ。地元民すら気を止めないような、そう、先日訪れた友人の持つ荒地の斜面からの風景もこんな様子だったのだ。
私はなんとなく、この絵の前に立てたことにほっとしていた。オルセーのフランス19世紀絵画の傑作が両側から迫ってくる空間をいくつも通り抜け、たどり着いたとまり木のような場所。次々に目に入ってくる有名絵画のごちそうの間の箸休めのような絵。
一体ピサロの描く絵の力とは何なのだろう。
移住と人生
カリブ海に浮かぶ当時のデンマーク領セント・トーマス島で、ピサロはフランス系ユダヤ人の両親の間に生まれ幼少期を過ごす。12歳でパリの寄宿学校に入学するためにフランスへ渡る。21歳の時にデンマーク人の画家フリッツ・メルビューと出会い彼の誘いをうけてベネズエラへ約3年間滞在する。絵を描くことが好きだった少年は、移り住む様々な場所で見た風景や地元民たちの姿を描いていた。
その後、画家を志しパリに渡ると多くの画家や画家志望の若者に出会う。丁度パリ万博が開かれ、当時パリを賑わせていた画家は新古典主義のアングルやロマン主義のドラクロワなどだったが、ピサロが注目したのは、ミレーやコローといった農民文化や農村を描いたバルビゾン派、そして前衛的な主題を描き、万博の審査に落選しそれに抗議をして自ら個展を開いていたクールベなどだった。
青年ピサロにこのようなパリのアートシーンはどのように映ったのだろうか。
その後は普仏戦争の時代にイギリスに逃れていた時期を除き、経済的な面からもパリ郊外の農村を転々とした。生涯描いた絵画は1300点を超える。その大半は、自然の風景や地元の人々を題材にしたもので、画家がインスピレーションを得るために他の場所を探すことはなく、周囲の環境や自然の移ろいに関心を持っていたことがわかる。
自然、人々に対する親密で深い感情
ピサロの絵には包容力のある視線がある。風景として描かれた自然や人々を「見守る」ような眼。それはオルセー美術館の印象派フロアを歩きそれぞれの画家たちの絵と比較してもみてとれる。それが私の感じたほっとした感覚かもしれない。
地元民の描き方もなんとも控えめで自然物の一つとしての距離感とタッチで描かれている。
ピサロの絵は、Plain Air /プレイン・エア(戸外)絵画の完成形と言われた。プレイン・エア絵画は、気候の変動が激しいため、短いストロークやクロスハッチングで迅速で鋭くエネルギッシュな技法を必要とした。
風景の移ろいに関心を常に持ち続ける、それは彼の内面や人柄によるところと言えるのではないか。揺るがない自己の芯を通じて見つめている外の世界。経験と審美眼で磨かれた選択力。
作家エミール・ゾラは当時の新聞「レヴェヌマン」にピサロに向けこんなメッセージを寄せている。
静かなアナーキズム、不屈のヒューマニズム
有名な話だが、ピサロは常に波乱含みだった印象派のすべての展覧会に出展を続けた数少ない画家であり、分裂や仲違いが絶えなかった印象派一派の仲裁人での一人でもあった。
セザンヌやゴーギャンなどの年下の画家から慕われ、彼らを画壇へと後押ししてきた。前回とりあげたカイユボットが経済面で印象派を支えた人物だったとすると、ピサロは精神、人間関係の面でそれを支えていた。
妻にした女性はピサロの実家の使用人で、親の猛反対にも屈せずに結婚を貫き、六人の子どもを授かった。
人柄のよさは押しの弱さにもなった。モネやルノワールのような相当な値段で絵を売り込む気の強さはなかったため、40代になっても経済面で苦労をしたようだが、コツコツと生涯にわたり描き続けることでその成功を手に入れた。
社会的な事柄にも常に関心を寄せ、主義主張で仲間と言い合うようなことはなくとも、自由主義的信念には忠実であった。逮捕され、非難され、追放された過激派の家族に手を差し伸べてもいた。
並大抵の意志の強さではないのだろう。青年時代ブルジョワジーと決別し、ベネズエラへ絵画の旅へと向かった時から、結婚、芸術への向き合い方も含め、静かなアナーキズムの中に生きていた。彼は不器用ながらも自由の精神の元に生きることを常に選んだ。
追い求めた風景
彼にとって風景画とは何だっただろうか。
同じような風景を描き続けていると批判を受けた時の彼の言葉と、息子への手紙の中にそのヒントがあるように思う。
風景という身近な自然現象の中に、彼は生涯自分の表現を追求できる「感覚」を見出した。そんな境地に辿り着いた彼にとって対象は無限であり、描くものがないということはありえないのだろう。
視覚的な捕捉の情報のみに基づくリアリティを追求し続けること。モチーフの色合いは光によって変化する。彼は、見た目の色を再現することよりも、光の変化によるオブジェクトの変化を翻訳できる色彩のダイナミズムを確立することを目指したように思う。
ピサロは生涯、彼の「文体」を重んじたと言えるのではないか、と文献を読みながら思った。それを描くことが彼の創造の目的だったのかもしれない。
そこで頭によぎったのは私の好きな小説家たちだ。いずれも物語(風景)は入れものに過ぎず、そこにある文体が彼らの血であると言える。
例えばそれは村上春樹や小川洋子といった作家たち。
自然と導かれるようにピサロに惹きつけられたのはそのせいなのかもしれない。
この辺りの話はまた別の機会に譲ろうと思う。
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