子どもの『間』に、ひそむもの
ずっと子どもが苦手だった。
3人兄妹の末っ子で自分より小さい子と接する機会が少なかったし、性格的にも面倒見のいいほうではなかったからだと思い込んできたけど、きっとどちらも根本的な理由ではなかったような気がする。
子どもをただ眺めているだけだったら、ああ可愛いねえ、元気だねえ、と心がほくほくするのだけど、いざ対面して話をすると、なんだかいつもドギマギしていた。
何が苦手だったのかというと、あの『間』だ。
「すきなもの、なあに?」
なにか話しかけると、子どもはピタリと固まって、こちらの目をジーッと見る。しばし見つめ合って、沈黙する。
聞こえなかったのかなあと思って、よりにこやかに、もう一度聞く。
「すきなもの、ある?」
やっぱり沈黙。
ああ、私の聞き方が悪かったのだろうか。いま、機嫌がわるいんだろうか。それとも……。私の奥底にひそんだ気持ちを見透かしているところなんじゃないだろうか。子どもに苦手意識があることも、この子にはばれているんじゃなかろうか。
その『間』のあいだに、心が乱れる。
そんな私をよそに、子どもは沈黙をものともせず、そのうちサッと目をそらし、答えを出さないことに何の躊躇もなく次の興味へ走り去っていってしまう。
会話は宙ぶらりんのまま。私のまわりには、投げかけた質問だけがふわふわと浮遊して、その片付け方がよくわからず、しばし呆然とたたずむ。
気持ちを切り換えようとしながらも、案外ダメージを受けていることに気づく。自意識過剰といえばそれまでなのだけど、それがきっと子どもが苦手な理由だった。
なついてくれる子もたまにはいたし、楽しく遊べることもあったけど、笑顔の下にはいつもそのビクビクをひた隠しにしていた。
***
それから時が経ち、子が生まれ、わが子の成長過程を間近で観察することになった。その日々のなかで、あの『間』のナゾが、ほんの少し解けたような気がした。
「たまご料理は何がいい??」
「きいろいタオルと、ピンクのタオル、どっちにする?」
「靴下はどんなの? 何色? 長いの? 短いの?」
子どもも日々、たくさんの選択や答えをせまられている。
ある時、数回の問いかけに答えないまま遊びだした娘に、
「どっちにするの?」
と、つい声を荒らげてしまったことがあった。
そうしたら娘は大きな声で、
「いま、かんがえてるの!!」
と言った。
ああ、なるほど。そうなのか。
考えている最中なのか。
そこで『間』のことが、腑に落ちた。
聞かれたことを忘れて、ただ遊んでいるだけかと思っていたけど、遊びながらも頭のどこかで考え続けていたのだろう。そういえばたしかに、ずいぶんと時間が経ってから答えを返すこともあって、そのたびに、そんなに長く考えていたのかと驚いた。
若い頃苦手だった、子どもの『間』。
「すきなもの、なあに?」と聞いたあとの沈黙は、聞かれたことを自分の頭でごりごりとかみ砕いて理解した後、答えをどうしようか、どれが一番自分の気持ちに近いのかを、がんばって考えていた時間だったのかと気づいた。
5歳なら、5年のあいだに経験したこと、知っている言葉、自分の感情、いろんなものを総動員して、頭をフル回転させて、聞かれたことに立ち向かっていたんだなあ、と。
その『間』をつかっても処理できない、いまは答えられないと判断した場合は、ひとまず違う興味へと走っていってしまうけれど、頭の片隅でその処理過程は続いていて、「これだ!」と自分の意思がかたまった時に、ふっと答える。それはとても突然で、お風呂場だったり、寝る前のベッドのなかだったり。
***
それに気づいたら、あの『間』が逆に愛おしくなった。
返事に時間がかかればかかるほど、じっくりと自分の頭で考えて答えを出すタイプなんだなあ、と思えるようになった。
これはきっと、子どもに限ったことではないのかもしれない。
パッパッと瞬時に答えを出していける人には憧れるけど、ああでもない、こうでないと、もがきながらも自分なりの答えを探し続ける姿には、やっぱり誠実さや人間的な魅力を感じるし、愛おしいと思う。
大人になるにつれ、返答はすぐにあって当然だと思うようになり(私の場合特にそう思っていた)、とりあえずの答えを用意しがちで、でもあとから考えると「なんであんなことを言ってしまったんだろう」とがっくりすることもよくある。もちろん速さが必要な場面もあるだろうけど、いつもそうとは限らないはず。
子どもの、あの『間』のようなもの。
自分の『間』も、他人の『間』も、そこにひそんだ偽りのない時間のようなものを、ゆっくりと大切にできる心持ちでいたいなあと、そんなことをよく思う。