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#24 "日本のウラ"「終末医療から見る『無神教』の影響について」

 ちょうど昨日、巷でやたらと話題になっていた世直しYoutuberについての見解をまとめた。

  主に書いたのは、こうした女性を不快にさせる者への私的な制裁への熱狂は、日本の『無神教』に因るものではないかという視点だ。

 日本では無神教であり、人々が一体となって信仰できるような宗教が存在しない。人はそれぞれ信じたいものを信じればいいし、それにより不当な扱いを受けることは決してないと保障されている。そうして人々の信仰を個人の自由に委ね多方面に分散することを認可した結果、多くの人のなかで価値観が多様化した一方、それでもなお大きな母数が手放さなかったのが「女性を傷つけるのは悪である」という善悪二元的な宗教だったのではないだろうか。
(略)
 人々が価値観を多様化させ、意のままにそれを布教させる自然信仰状態を放置してしまえば、我々はその信仰を、やがて私たちの誰もが従わざるを得ないような身体性に即していくしかなくなってしまうのだ。

 日本では信教の自由が確立されており、何を信ずるも各人の自由とされている。その自由をもとに信仰が人々の間で分散した結果、大多数が信仰した『女性への崇拝』は逆に社会の持続性を危うくしてしまうのではないか——そう自分は考える。それが例えば過去においては『束となって強オスを襲う弱オス』だっただろう。今でこそそうした行為は犯罪として処理されるものの、令和では、要求される男らしさのハードルが上がり多くの男が恋愛から降りるようになり少子化が加速しているという点で、それがきちんと実証されてしまっているようにも思う。

 そうした無神教が与える影響が、日本にはもう一つ存在するように思う。

 終末医療である。

 この国において、社会保険料などが若者にとって大きな負担となり、高齢者割合が今後も増加していくにあたってその制度は実に先行きの怪しいものとなっている。その少子高齢化は、大量に老人が放置され孤独死で溢れかえるまで加速し続けることだろう。

 ここにも、日本の『無神教』が大きく関わっているように思うのだ。

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 『スパゲッティ症候群』という造語が話題になったのは一昔前だろうか。延命治療においては、チューブを介して鼻や胃から栄養剤を流し、また人工呼吸器によってその呼吸を促すわけだが、それらの器具を使うと全身がチューブだらけになり、そんな体に何本もの管が刺さっている様子を揶揄して作られた単語である。その様子を見れば誰もが「ここまで生の要素がないにもかかわらず本人を生かしておくことに意味はあるのか」という疑問と向かい合わねばならないだろう。

 しかし現在の医療制度はこれを是としている。是としている……というより、医者個人には「そんな患者は受け入れません」と決めるような決定権がない。患者及びその家族が望むのなら、きちんと治療が行われる。保険により家族に課される負担が少なく、またそれにより年金がもらえるなどのプラス要素があれば、誰でもその治療を依頼するだろう。

 言わば現在の日本では、この医療制度のみが人々の死生観を統合してしまっているのではないだろうか。即ち今の日本には、これら医療制度に匹敵するような死生観がなく、病院に入れ、そこで最善を尽くし臨終を待つという以外に我々が納得できる死に方というものが存在しないのだ。

 そして、その医療に匹敵する死生観を作っていたもの——それこそが宗教だっただろう。

 老人というものには分かりやすい二面性があるように思う。その経験や知恵を頼りにすることで若者にとって大きな支えとなる一方で、体力的に大きく衰えた存在を支えるにあたって若者のリソースを大きく奪ってしまう。それゆえ彼らに関しては、長く生きたぶん最大限の敬意を彼らに与えるという価値観と同時に、いざとなったらそれを切り捨てる覚悟も必要であるという教えも同時に伝えられてきた。「津波てんでんこ」というものがまさにそれにあたるだろう。津波被害が多い三陸地方では「津波が起きたら家族が一緒にいなくても気にせず、てんでばらばらに高所に逃げ、まずは自分の命を守れ」と教えられる。老人を助けようとしてその若者も一緒に命の危険に晒されるくらいなら、未来ある若者だけでも助かったほうがいいからだ。

 しかしそうした「津波てんでんこ」のような教えも、医療制度に見られるような命第一的な価値観を前には太刀打ちできなくなってしまっている。

 高齢者や負傷者が津波避難タワーに上れない状況を想定した避難訓練がこのほど、幡多郡黒潮町入野で行われ、大方児童館の子ども会や南郷小学校の児童20人が非常用担架に人を乗せて階段を上った。

  サムネイルに用意されたこの画像こそが現代の日本の医療制度を風刺しているようで、個人的には少し胸が痛くなってしまう。高知県黒潮町では、南海トラフ地震により34mもの津波が予想されているという。そのような状況でこうした援助を行うというのが適切なのかどうか——専門的な知見はないのだが、少なくとも我が身は助かろうと一人逃げるような若者を責めるようなことだけはないように願いたいと思う。

 少し余談にはなるが、山間の町のほうが自殺率が高いという研究は実際にあったりする。移動に高低差がある町のほうが、災害や病気などの際に移動を諦めそこで死を受け入れるという価値観が形成されやすいのだ。誰かへの援助を苦にする土地柄でこそ、そうした死生観が成長するのは当然のことだ。

 しかし昨今の日本では、そうしたライフラインに不便がある町から若者は離れ、より首都圏一強の動きが加速している。言わば日本が全体的に〝海化〟しており、これだけの状況では腹を括って死ぬべしといったような価値観がさらに淘汰されているのではないだろうか。

 つまるところ、こうした海周辺の町で津波に備えて老人の避難援助に手を貸すというのは、いざ大地震が起きた際の津波くらいしか危険がない比較的穏やかな町だからこそ引き起こされる『平和ボケ』のような気もしてしまうのだ。

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 これらを考えたとき、かつての宗教が持っていた意味合いというものがなんとなく分かるような気がするのである。

 宗教というのはきっと、不確定に訪れる死のリスクがそこらに溢れているからこそ、その死を受容するための方法論として機能していたのだろう。つまり、危険な町だからこそ、その宗教というものが最大限の意味を発揮するのかもしれない。

 少し振り返ると、この記事の初めに自分は「医療に匹敵するような死生観がない」と書いた。しかしこの書き方は根本的な矛盾を含んでいるだろう。

 なぜなら「死生観」というものは、医療が発達しておらず、いつ何時も死のリスクが隣り合わせであることを実感する社会でしか必要とされないものだからだ。医療に匹敵するような死生観がないのではない。十分な医療がある時点で、それこそが死生観の役割を全うしてしまうのだ。

 先ほど三陸で伝えられる「津波てんでんこ」を例に出したが、それは東北地方で地震がよく起きるからだろう。その地方で津波が起きれば、大なり小なり老人は死を覚悟するのだと思う。それこそが一つの死生観だが、医療大国を反映した首都圏とは異なるその死生観は、地震が起きやすいという身近な危険とセットとなる。いっぽうなかなか地震の話を聞かない四国地方だからこそ、そうした価値観は強く根付かない。寿命を全うする以外に死のリスクが転がっていない街だからこそ、その死生観に準ずる行動が規範となり、老人の避難を手助けするような温かみ溢れる実習が行われるということでもあるのだろう。

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 我々はそのほとんどが、日常において、寿命以外に死のリスクと隣り合った経験を持たない。

 しかしそれらを常に体の隣に座らせていた時代だったからこそ、宗教は意味を持ったのだろう。老人はいざとなれば先に死ぬものだと伝えたし、その死を極力柔らかなものにするため、現世でこのような行いを施せば極楽浄土に向かえると信じ込んだ。

 ただ、それらはすべて我々にとって現実味がない。

 いかんせん、この世が平和すぎるのだ。

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