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#23 ”日本のウラ”「私刑が炙り出す『無神教の地獄』について」

 主に8月の下旬ごろから、とあるインフルエンサーの存在が拡散されているのを目にし、その存在がずっと気になっていた。

 私刑——即ち、警察等の公的機関ではない一般市民が有害とみなした人間に私的な制裁を加えるような行為——をネット上に公開するという形で視聴者を獲得するような動きがちらほらと見られたのである。

 いくつか例を示すと、駅を不自然に徘徊していた人間を問い詰め警察に引き渡すといった様子を投稿し話題になったガッツChや、また、不自然なカメラに気がついた際、その者の体を拘束しスマホを強引に奪って自白を促すような動画を投稿したスーパードミネーターなどだろうか。そのリンクに飛び少し動画を見るだけでわかるだろうが、彼らは治安を守ることを大義に掲げ、犯罪を未然に防ぐという目的のもと活動しているようだ。たしかにこうした活動により、未然に性犯罪が防がれている側面は大いにある。

 しかしネットでは、実に大きな論争が呼び起こされていた。

https://twitter.com/a_breezylove/status/1689698615256825856より引用


https://twitter.com/dreamnpk97/status/1696856099763429855?s=20より引用

 彼らのような私刑がより安全で治安のよい社会を実現させるのだと直感しそれに賛成する母数にはやはり女性が多く、その反面、証拠が不十分な状況でその自由を拘束するのは法治国家に属する者としておかしいのではと懸念するのは、そのほとんどが男性だったように思う。

 さて、これは実に議論しがいのあるテーマだろう。

 私刑は、肯定されてよいのだろうか。

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 この話題について語るうえで、一つ思い出す話がある。

 アメリカの番組『to catch a predator』である。なかなかこの件をまとめたサイトのようなものはなく(Wikiも全文が英語)、岡田斗司夫氏が自身のYoutubeチャンネルでまとめている者が最も分かりやすいと思う。それが以下だ。

  動画を見るのは大変だと思うので、まとめると、以下のような話になる(もし興味がある方は、だいたい43分ごろから見て頂きたい)。

 『to catch a predator』は、アメリカにおいてかつて放送されていたバラエティ番組である。その内容は、少年少女をひっかけようとする性犯罪者を逆につかまえてやろうという、いわゆるドッキリ企画だ。番組は中高生に見えるような若いモデルスタッフを用意してSNSに登録させ、こちらから男に「会おう」とメッセージを送る。それにノコノコとついてきた男とスタッフの密会状況を番組が追いかけ、あるところでスタッフが席を外した瞬間に、一斉にカメラで詰め寄るというのだ。なぜこの少女と二人きりになったのかと問い詰められた男はパニックになり様々な言い訳を考えるが、なぜコンドームを持っていたのかなどと聞かれるうちに言い逃れできないことを察し、その場から逃げ出すもそこには番組が事前に用意していた警官が待ち構えており、そして逮捕に至る——そんな様子をエンタメとして放映していたのである。

 しかし当番組はある事件をきっかけに打ち切りとなる。ある回においてスタッフに引っ掛けられたのが、とある州の検事だったのだ。このような事態がバレれば何もかもを失うのは目に見えたのだろう。検事はすぐ奥の部屋に隠れると拳銃自殺を図った。この事件に対し遺族は抗議する。「まだ彼は犯罪に手を染めてはいなかった。それにも関わらず彼を自殺に追い込むなんておかしい」と。それがアメリカでも大きな議論となり、泥沼化して番組も打ち切りが決まったのである。

 上記の動画内で岡田氏はこう語る。

 つまりこの『to catch a predator』という番組が面白そうだというこの下衆な感情はあって、いいぞやれという思いはあるんだけど、これでいいのかという疑問点は必ずあるようなもんなんですけども、大半のアメリカ人はそこのところにあんまり頓着がない。それが何でかって言うと、西洋文化っていうかな、キリスト教文化なのかアメリカ文化なのかは分からないけど、人を正義と悪に単純に分けてしまう考えがあるんですね。この世の中には正義っていうものがある、イコールこの世には悪があるっていう。100パーセント正義、100パーセント悪っていうのが存在するから、絶対に許せないやつがいてもいいんだっていう価値観を持ってしまう。なので、その子ども相手に、なんだろう、性犯罪をしようとする連中はその段階でもう一生涯捌かれても当たり前だっていうふうに考えてしまうわけなんですね。これもサンクションなわけです。

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 岡田氏が語ったような、このアメリカ文化に見られる正義と悪の二元論が私刑に大衆を賛同させるという視点は、この日本でも現在進行形で行われている私刑を理解するうえで大きな補助線となるように思う。

 日本では無神教であり、人々が一体となって信仰できるような宗教が存在しない。人はそれぞれ信じたいものを信じればいいし、それにより不当な扱いを受けることは決してないと保障されている。そうして人々の信仰を個人の自由に委ね多方面に分散することを認可した結果、多くの人のなかで価値観が多様化した一方、それでもなお大きな母数が手放さなかったのが「女性を傷つけるのは悪である」という善悪二元的な宗教だったのではないだろうか。

 この宗教は、実に多くの人間にとって受け入れられやすいものだろう。女性は言うまでもない。その身を保護してもらえる価値観に彼女たちが賛同するのは当然だ。そしてまた、男性にとってもこの宗教は魅力的である。女性を迫害するような男性が女性に好かれるはずがない。自分は女性の生活を脅かさないという態度は男性が子孫を残すために女性に好かれるうえで必須条件となる態度だ。いわばこの宗教は、男にとってみれば、自分の遺伝子を残すために是非入会することが望ましいとされる養成所のようなものだ。唯一その宗教に入るインセンティブがない存在がいるとすれば、それは子孫を残すことを諦めた男だ。子孫を残す欲求を抱えてこのリアルを生きる以上、どうしてもその宗教を無下にすることはできない。SNSでは唯一例外的に女性を蔑むような意見等が爆発しているが、その理由は、SNSではリアルの女性関係から切り離されるために宗教に加入していることをSNS上で顕示するメリットが存在しないからだろう。

 その宗教に入ることで、女性はその身の安全を確保でき、また、男性は子孫を残せる可能性がぐっと引き上がる。——そんな誰にとってもお得な宗教こそが、この無神教の日本において唯一、多数の人々をまとめることに成功した信仰だったのではないだろうか。

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 こう考えることで、かつての人々が、ほとんど例外なしにある種の宗教を必要としてきた理由がなんとなく分かるのではないだろうか。

 人々が価値観を多様化させ、意のままにそれを布教させる自然信仰状態を放置してしまえば、我々はその信仰を、やがて私たちの誰もが従わざるを得ないような身体性に即していくしかなくなってしまうのだ。

 その結果として顕著になるのは「身体性の格差」であり、つまるところ魅力を感じにくい男性のみが不利を被るような不平等な宗教だけがそこに残ってしまう。その格差の敗北者は、往々にして社会への協力を放棄し、また束になって強オスを襲うこともある。そうした社会が持続性に優れないことを、過去の先人たちは分かっていたのかもしれない。

 だからそこで敢えて「神の啓示」を用意することにした。「女性を守る」という宗教に人々がのめりこんでしまわないよう、別の形で、さらに誰でも守れるようなタイプの信仰を用意したのだ。もちろんそれが各人に不自由を強いる者であったことは間違いない。だからこそ「○○をすれば神はあなたを気に入る」「△△によりあなたは死後報われる」という甘い文句をセットにしたのではないだろうか。それこそが最も合理的に多数国民を社会に参入させる方法だったのではないかと、自分にはそう感じられるのだ。

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 ともすれば、ガッツchやスーパードミネーターが賛同される社会というものは、実は優れた道徳的な行為に見えて、実際のところは時代の退行なのかもしれない。先進国は軒並み少子化に悩んでおり、いっぽう、婚前交渉が禁止で女性が肌を見せることも許されないイスラム教のほうがはるかに多産な社会を形成しているというのだから実に皮肉なものだ。

 自分は、今の日本を見た先人が、このように嘆いているような気がしてならない。

 ——ほら見ろ、だから俺たちは宗教を作ったのだ、と。


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