『トップガン マーヴェリック』に見る、現代に希少なものとは?(ネタバレ無し)
『トップガン マーヴェリック』が大好評である。感想もおおむね大好評で、世界的に2022年を代表する映画になった、と言っていいだろう。
私は前作『トップガン』(1986年)に特別な思い入れがあるというわけではないが、思い入れの有る無しに関係なく、今作『マーヴェリック』は文句なしに「良い映画」だった。
空を飛ぶことの快楽と厳しさが、文字通り「肌で」感じられるという、近年珍しい特別な映画体験をすることができたからだ。
この映画にあるもの。それは2つの圧倒的な「説得力」だ。
まず、トム・クルーズが「現役」であるということ。
前作『トップガン』から35年の歳月が経ち、トム(1962年生まれ)は還暦を迎えようとしている(撮影時には56~57歳だっただろうか)。
にもかかわらず、トム・クルーズは自らの二本の脚で走り、バイクでアメリカの荒野を走り、そして大空を飛ぶ!
加えて、顔も体幹部も若々しい。
それを求めることは酷なこともよくわかるつもりだが、かつてのスラっとした姿はもはや遥か彼方に消えてしまった俳優も多い中、昔の栄光のおこぼれにあずかるのではなく、今でも進化し続けている。そのことを全身全霊で証明する男、それがトム・クルーズだ。
そう言わんばかりの説得力が、画面からあふれでていた。
そしてもう一点は、なんといっても、俳優が実際に戦闘機に乗って撮影をしている、ということだ。
戦闘機が急旋回・急上昇をする際に、搭乗している俳優には大きなG(メイキングでトム・クルーズは、最大7.5~8Gだと語っていた)がかかり、苦悶に顔を歪め、荒い息をする。
もちろん映画なので、演技でそうしていた部分もあるのかもしれない。しかし普通の観客にとっては、とても演技には見えない。圧倒的に「リアル」なものだった。
なにしろ、戦闘機に乗る俳優たちは、プロペラ機からはじめて、アクロバット飛行、空母からの離陸、と本気の訓練をして撮影に臨んだのだから、演技というよりは、コックピット内が映る場面に関しては「ドキュメンタリー」と言ってもいいかもしれない。
私たち人間は、他人に対して同調する能力を持っている。
だから、『トップガン マーヴェリック』の観客は、飛行している俳優に同調し、その肉体にかかる激烈なGや、右に左に旋回することで天地が引っ繰り返るような衝撃、快感や恐怖を追体験する。
まさに、身体で感じる映画体験だ。このような撮影が今後も行われるかわからないという意味では、空前絶後の映画体験になるかもしれない。
近年、映画館で享受できる体験は、CGを使ったリッチな映像と巨大な音響設備によるリッチな音だ。
『アヴェンジャーズ』などのアメコミヒーロー映画での、アイアンマンやハルクのダイナミックな動きは現在のCG技術がなければ成し得ないものだし、『ボヘミアン・ラプソディ―』のようなミュージシャンを題材にした映画では、映画館の音響設備でなければあの分厚い音は体感できない。
このふたつが、最近の映画体験の主たる要素になっている。いわば「視聴覚」的な体験である。
映画が視聴覚的体験なのは当たり前と思われるだろう。実際に映画の歴史とは、「視聴覚的体験の創造」に関する進化の歴史と言ってもいい。
しかし、『トップガン マーヴェリック』の体験は、視聴覚的な体験を超えている。
この映画は観客に、Gを受ける役者の身体感覚に同調することによる「身体感覚的体験」を引き起こすことに成功している。
今、人と会うもしくは大勢で集まる機会を減らそうという社会の機運によって、相対的に「リアル」の価値が高まってきている。
私の場合は、マスクを着用していることで、実際に人と話している際にも何か非現実的な感覚を感じてしまう。
さらに、ここ十数年はスマートフォンの登場によって、「バーチャル」に意識を取られている機会が大幅に増えた。
そもそも”先進国”で生活する現代人は、生活が便利になっていくのに伴って、身体を使う機会が減り、身体感覚が弱まっている。
そのような状況だからこそ、『トップガン マーヴェリック』という作品によって、自身の身体感覚を激しく揺さぶられ、自分自身に「身体がある」ことを思い出すことが、現代人にとって死活的に重大なことだったのではないか。
なぜなら人間は、身体を忘れては生きていけないからである。全身の60兆の細胞が、イキイキと生きることを求めているのだ。
『トップガン マーヴェリック』を観て「求めているものがここにあった」と感じた人は、自身の身体の欲求を叶えたのだ。
生きていることを感じたいという欲求を。
さらに言うと、『トップガン マーヴェリック』の説得力は、唯一無二のものだ。
スポーツ映画にも肉体の躍動はあるが、なにせ、演じている俳優は「本物」のパフォーマンスはできない。仕方のないことだが、その俳優に同調したところで、トップのスポーツ選手がパフォーマンスしている際に感じているであろう「本物の感覚」はない。
コンテンツによっては、受け手の身体に訴えかけるために暴力的な表現を使うものも多い。だが、巨人に食べられたり鬼に食べられたり、銃で撃たれたりというのは、どれだけリアルに描こうとも、映像作品の中では「ウソ」の出来事だ(これが本物だったら、怖すぎる)。
しかし、繰り返しになるが、『トップガン マーヴェリック』において役者が感じている苦痛・快感は「本物」だ。しかも、物語と設定が絶妙で、彼らに対してより同調しやすい状況が生まれている。また、そもそも映画館は暗闇なので普段の感覚が遮断され、スクリーンに映っているものに同調しやすい。そういった意味で、この映画が与えてくれる体験は非常にユニークなものなのだ。
ここでまとめる。
現代社会における希少なもの、それは「身体感覚」だ。
私たち(”先進国”の)現代人は、身体感覚が衰えていて、身体を忘れている。
一方で、そんな身体感覚を思い出そうと、バンジージャンプやスカイダイビングを行う人もいる。
また、体に絵を彫ったり、尋常じゃない数のピアスをつける人もいる。
本当はそんなことをしなくても、歩きながら動いている箇所を感じるとか、呼吸に意識を向けるなど、もっと穏やかな方法で身体感覚を高めていくことができる。
でも、多くの人はそんなめんどくさいことをしないものだ。
そんなジレンマを抱える現代人に、映画という形態で手軽に身体感覚を思い出させてくれる作品が突如やってきた。
これはヒットするはずだ。
さて、今後映画体験はどのようになっていくのか。俳優の演技は、リアルなGを超えるのか。それとも、他の道を探っていくのか。
これは文明の行く末に関連する問題だと思うのだが、どうだろう。
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