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再び、自分にとって「再び」noteが生まれた場所で

私は「三度目の正直」なるものとして、此処noteで改めて書き始めた当時の心境を思い出していた。


およそ三ヶ月ぶりに、実家へと帰省した翌日の夜。かつて父が生前、仕事をしていた時に使っていた机の上に、長らく使用している自前のノートPCを置いては広げていく。

因みにその机は、私が小学生だった頃に使用していた勉強机だ。やがて成人して実家を離れてから、父はいつの間にか改造を施しては、自分の仕事机としてうまく活用していた。

しかし3年前に、父が病を患い入院することになり、晩年を過ぎてから、私が仕事の関係で実家に戻るノートPCを置き始めるまでほとんど触れられることはなかった。

その間に、母の手によって片付けられており、乱雑となっていた机の上は多少見栄えが良くなっていた。だが、かつて愛用していたボールペンを始め、仕事道具として使われていた文房具類がペン立てに収まっている様は、まるでそこの部分だけ時が止まったようにも見えた。


そんな場所で、昨年の今ぐらいの時期に、此処noteで再び始める決心をしていた。しかし何を書いたらいいのか、何を伝えようとしたらいいのか。自ら胸の内を打ち明けられる人が不在のまま、考えば考えるほど余計に苦しくなっていた。

動かそうと躍起になっていた手も、いつの間にか微動だにしなくなってしまう。そもそも私には、多くの人々を勇気づけることや励ましたりする他、魅了させたりような知名度なんてものは、皆無に等しい。

ゆえに、誰か一人だけでも確実に見てもらえる保証など、どこにないことは承知の上であった。だからこそ、ひとりで延々と考え続け、悩み込んでしまったのだ。刻々と時間が無常に流れていく様を、壁時計の秒針から発するカチコチ音を耳にしながら。

やがて焦りと共に、自ら足枷あしかせとなっている負のスパイラルが加速していくように、すっかり停止した思考を徐々に侵食していく。

結局書き始めたとしても、いずれ過去に行ってきた事と同じように「何か」をきっかけに、再び止まってしまうのではないか。連続投稿が半ばで途切れたり、自分にとって納得の行く評価が得られないのではないか…と。


目を瞑りながら肘を机に置き、手を額に当ててまで悩み続けた挙句「何を書けばいいかわからず、ただただ時間がすぎてしまった」という、側から見てどうでもいい文章が降りてきたのだ。

だがこの一文は、自ら考えて出し抜いたものではない。とある方のブログを愛読していた時期に、暫く更新できていなかったことに対する悩みを打ち明けていたのを、ふと思い出した一文章である。

それを証拠に、投稿されるまでの期間が随分と空いている。おそらくその人自身は、自ら苦境に立たされていたのであろう。そうした様子を、文面を通してそう感じ取れたのだ。

もしかしたら私も、同じ位置にいるのかもしれないと、ほんの少し落ち着かせるように考えてみた。立場が、年齢が、置かれている状況がどうであれ。仮にそうでないとしても、そうでありたいと云い聞かせていた。


でもやはり自分には、誰かに伝えたいことが何一つ見つからないと、思い知らされてしまうのだ。だからといって、そこで何も手を付けずに終わらせてしまうものではない。

今が、誰かの心に灯していくような存在になれずとも。誰かの生きる上での知恵すら、まともに役に立てずとも。そしてさらに、虚無を感じるような出来事に遭遇することになろうとも。


こうして一年以上此処noteで書き続けても尚、誰かと比べて「何か」を伝えられるということを、私としてはそう多くないのかもしれない。

それよりも私自身、誰かに「何か」を伝える事に対して、とてつもなく不器用な人間である。それは目まぐるしい日々の中で、365日以上書き続けてきたとしても、心のどこかに感じることがあると思っている。


けれど、再び一つの日記に文字を綴り始めたことによって、進んでいる実感がすぐに得られずとも、確かに意味はあったと、今はそう信じていたい。





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