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152日目:すいちゅう【水中】→掌編小説

すいちゅう【水中】
水のなか。

◆◆◆

「夜の海へ、行ったことはある?」

女は、カラオケボックスの壁に描かれた、安っぽい熱帯魚やクジラを眺めながら言った。ブラックライトに照らされた極彩色の水中で、僕たち二人は向かい合っている。

「田舎の海って街灯がないから、月明かりを頼りに歩くしかなくてね。潮騒だけが聞こえるの。世界の果てってこんなかな、と思ったよ」
女は呟くように言って、壁に描かれた水面を細い指でなぞる。

君の故郷のこと? そう尋ねてみると、「ううん。わたしが好きだった人の、産まれた町で見た海」と、悲しそうな微笑みが返ってきた。

最終電車を逃した深夜の駅で、僕たちはお互いを拾った。
数十秒前に電車が出たであろうホームで、切らした息を整えていると、その場で立ちつくしていた女に声を掛けられた。
「どこかで始発待ちませんか?」
年齢は、二十代後半くらいだろうか。僕より少し年下に見える。
断る理由も特になかったけれど、知らない女をホテルに誘うのも面倒で、駅前のカラオケに流れ込んだのだった。

「暗い海に吸いこまれそうだった。波に足を浸したら、なにもかもどうでもよくなって」手に持ったソーダ水を見つめながら、女が言う。
そのときは、彼氏と喧嘩でもしたの? 
「死んじゃったの、その人。四年も付きあってたのに、お葬式で初めてご両親に会った」女はそう言って、肩をすくめた。
僕が返答に困っていると、「別に慰めなんていらない。どうしようもないことってあるから」と、女は退屈そうにカラオケのリモコンをいじりはじめた。

朝になったら、始発に乗って海に行こうか。
女の儚げな表情を変えたくて、そんな提案しようかと思ったけれど、スピーカーから流れてきたハープの音に、言いだすきっかけは流されていった。

その激しさ その声 その胸が
消えてしまった
抱いて抱いて抱いて


細い声で、女が歌う。淡々と囁くような歌声を聞きながら、恋が叶わず泡となった人魚姫のことなんかを思いだした。
メロディに合わせて女が揺れるたび、壁に描かれた海も、ゆらゆらと揺れる。

いつの間にか僕は眠っていたらしい。
窓のない部屋で目覚めると、いつも時間の感覚が狂う。携帯を確かめると、既に朝の五時だった。もうすぐ始発が出る。

ソファの上で縮こまっていた体が、痛くて不快だ。
小部屋に女の姿はなくて、僕だけが安っぽい水中に取り残されていた。テーブルには、青いボールペンで「またね」とだけ書かれたメモ紙と、千円札二枚が置いてある。

またねって、お互いの連絡先も知らないじゃないか。

始発が出るまで、あと十五分。間に合うだろうか?
もしも彼女に会えたなら、昨日言いそびれた言葉を伝えよう。
僕は残されたメモ紙を握りしめて、偽物の海を飛び出した。


◆◆◆
引用した歌詞はNokkoの「人魚」。作詞は筒美京平さん。


お読み頂き、ありがとうございました。 読んでくれる方がいるだけで、めっちゃ嬉しいです!