見出し画像

今日も知らないふりをする

知っているのに。

友人が誰のことを好きなのか、はたまた誰と仲の良いフリをしているのか。最近はやりの芸能人のゴシップ。顔が少し好みな俳優の出演情報。夕飯時になんとなく点けているテレビ番組のタイトル、出演者。高校時代のクラスの3つも離れた子の名前。本当は全部知っている。

自分が本当は誰といたくて、誰のことが苦手で、誰のことが好きか。言わないだけで、本当は知っているのだ。しかし、知らないふりをする。知っていると自覚を持つと、それらが事実になってしまう気がして。認めることが怖い。たとえば、このなんとも形容しがたい関係性を自分の思いだけで壊すということが、怖く、かなしい。自分に正直になることで得られる不幸と演じることで得られる心地よさ。選ばれるのは決まってイージーな方。

一方で"もっと"自分に正直になれよという自分もいる。その方が人生楽になるよ、と。

まわりから「素直」「正直」「嘘をつけない」と思われている自分がいる。実際とても楽観的。悩みは寝たら忘れる。それでも知らないふりはやめられない。たとえば "もっと" 正直になってしまったら、私はとても露骨で暴力的で粗野、人間らしいというより動物的な人間になる気がする。きっと。

知らないふりをすることで、他人に興味がなくミステリアスで、自分を持っていると評価されることがよくある。全然そんなことはない。ミステリアスな人は好きだけど、私はミステリアスを自己演出できるほど頭はよくないし、自己演出なんて余裕のある人がやればいいこと、私の自己演出があったとしたらきっとしょうもないもの。だからといって、私のミステリアスさという評価は一種の才能であることよと誇示したいわけではない。皆んなが都合よくそう解釈してしてくれているのだ。私の知らないふりという特性によって。

ここまでが外部(外)においての知らないふりだとしたら、内部=家での知らないふりは、直ぐにでもやめたいことのひとつ。しかし習慣化してしてまいこれもまたやめられない。

無知を露呈することで笑いを得ようとしてしまう。なんて滑稽な。嫌がられても鬱陶しがられても話しかけることをやめない。相手の感情など知らないふりをして。お調子者、にぎやか。それが家族のなかでの自分の役割なのだと、ある時からその役割を勝手に担っている。しまいにはアスペルガーだと言われる始末。(もしかしたらそうなのかもしれない。)

家族が外での私を目撃したら、どっちが本当の私だと思うのだろうか。もしかしたらどちらも本当の私ではないのかもしれない。

知らないふりをする毎日には疲れない。やめたい私と続ける私が同居して、結局は抜けられない。楽なのは、知らないという状態により色々教えてもらうことであり、見逃されることであり、助けを得られることである。

もちろん、何も知らないで得したことも損したこともある。

最近、一区切りがついた。これから自分はどちらに舵を切っていこうか。迷いながらも今日は何回知らないふりをしてしまうのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?