京友禅に色を挿す職人のおはなし
義父は京友禅の職人だった。
京友禅は、職人が分業して全て手作業で作りあげる「手描き友禅」と、型紙を使って一度に大量に染める「型友禅」の2通りがある。
義父は手描き友禅の職人。下絵師が着物に描いた絵に色をつける「色挿し」の工程を担っていた。20色ほどの染料を調合し何十種類もの色を作り出す。どんな配色にするかは、色挿し職人の腕にかかっているので、技術力はもとよりセンスが求められる。
「だんだん熟練してくると、下絵を見た瞬間に、全て塗りあがった状態が、目の前に浮かび上がってくる」のだとか。めずらしく友禅の話をしてくれた義父はそう振り返っていた。
配色が決まると、筆でひとつひとつ丁寧に塗り上げていく。緻密な作業で、時間もかかる。繁忙期にはとても手が足りず、色塗り作業は義母や近所のお母さん(器用な人限定。私のように不器用な人はきっと無理)がバイトで参加。義父の作った配色指示をもとに作業していたようだ。
■京都の風物詩だった友禅流し
ちなみに色挿しの前には、下絵の線を縁取るように糊をのせていく「糊置き」という工程があるらしい。一つひとつの輪郭に糊を置くことで隣り合った色が混ざることなく、何色もの色の使い分けが可能になる。これもまた緻密な作業で「糊置き職人」の熟練の技が求められる。
色挿しの後は、蒸らしなどの工程を経て「友禅流し」が行われる。水に布をさらし、生地についた糊や余分な染料を落とす。京都ではかつて鴨川や堀川で、この友禅流しが行われており、京都の風物詩となっていたとか(昭和46年に排水規制で川での水洗いは完全に禁止されたよう)。
最後に、生地の表面に金箔などをのせるなど装飾の工程を経て、ようやく完成に至る。
ざっくりかいつまむとそんな流れだ。
■職人が納めた反物。仕立てられ初めて着物に。
呉服屋さんを訪れたことのない私は、色とりどりの着物が並べられているイメージをパッと抱いてしまう。だがそれは違う。
友禅職人は反物(筒状に巻いた布)をつくり呉服屋に納める。そして呉服屋を訪れたお客さんが気に入った反物を選び、ようやく着物を仕立てることになる。うんうん、時代劇でそんなシーンを見たことがある。
■旦那が子供の頃に目にした光景
旦那が子供の頃、両親の作業場には色を塗り終えた布がたくさん立て掛けてあったそうだ。それを子供の旦那が一つ二つ倒したり、時には触ったりして、叱られたのも、今となっては微笑ましい思い出。
「親父達が色を塗るときは、布の下に電熱器を置いて下から熱風を送っていたな。塗ったそばから乾いていくから色滲みを防げるんだろうね」。旦那は子供の頃に見た光景を、頭の中で懸命に手繰り寄せる。「写真に撮っておけば良かったなぁ」と悔しさをにじませる。
手描き友禅は絶滅の危機に瀕している。ほとんどは型友禅(型紙を用いた版画のような製法)のようだ。その型友禅だって縮小の一途をたどっている。高いお金を払ってまで、手仕事や染めにこだわる人は、もう多くないのだろう。
今はインクジェットでプリントされた着物が幅をきかせている。京都の町に溢れているレンタル着物もたいていはインクジェット着物だ。
旦那の小学校のクラスメイトのほとんどは着物関係の家の子だったらしいが、今となってはほとんどが廃業してしまった。
日本を代表する伝統工芸の、あまりのあっけなさに寂しさを感じずにはいられない。
■余談:友禅は差し出すべきだったか否か
余談になるが、義祖父は型友禅工場の工場長だった。堀川で友禅流しをしていた光景が、義父の記憶には残っているようだ。
ところが戦争は全てを奪ってしまう。工場にある金目の道具や友禅の着物までも「軍需用」として全て持ち去られてしまった。
やがて工場が立ち行かなくなった義祖父一家は、数年後に京都の中央から金閣寺の辺りへ引っ越すことを余儀なくされた。京都人の感覚としては「都落ち」の無念さを覚えたそうだ。
戦争が終わった数日後、義祖母は京都市内の堀川通りで美しいチマチョゴリ(韓国の伝統衣装)をまとって踊る、在日韓国人女性達を見かけたらしい。
「全部出せ」と言われ、大事な着物まで、馬鹿正直に差し出していた自分達は何だったのか。もはや着物どころか、色のついた服さえ持っていない。
韓国人達のその麗しい姿を目にして義祖母は初めて「日本は負けたんだ」とはっきり自覚したそうだ。
義祖母の敗戦エピソードは、いつの時代も変わらぬ女性心理が、共感として伝わり、興味深く心に染み渡った。
※なおサムネイルは加賀友禅のお写真をお借りしております(京友禅のお写真はありませんでした)。ありがとうございます!!
京友禅は割と華やかな色を多用するのに対し、加賀友禅は落ち着いた色でまとめる特徴があるようです。
※参考資料:京都きもの市場「きものと」
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