見出し画像

【歴史概要31】アフガニスタン紛争・タリバン

①ソ連の計画はカルマル政権をサポートして安定させる事だった。半年で撤退する予定だったがカルマル政権からの強い要望でソ連軍は長期駐留をしていた。

②1980年に社会主義圏で初めてのモスクワオリンピックが行われたが西側諸国51か国はアフガニスタン侵攻の抗議のため不参加を表明した。1984年のロサンゼルスオリンピックはアメリカ軍のグレナダ侵攻を口実にソ連がボイコットした。

③駐留したソ連軍は常時10万人程度でありアフガニスタンの兵力も10万人程度であった。

ゲリラ戦に慣れていないソ連兵は苦戦した。大量のヘリコプター部隊が投入されたがアメリカが供与した携帯用の爆撃機ミサイルスティンガーがヘリコプター部隊の牽制となった。

④ソ連の支援するカルマル政権に対抗するのはジハード戦士ムジャヒディーンであった。

主にアメリカやパキスタンやサウジアラビアがサポートした。後のアルカイーダの前身であるアラブ人義勇兵も採用される事となった。義勇兵の1人には後にニューヨークの同時多発テロの首謀者となるオサマ・ビンラディンがいた。

⑤ムジャヒディーンはアメリカのサポートを受けゲリラ戦を巧みにこなしていく。イスラーム協会のマスード将軍のようなソ連の大攻勢を撃破する人物も台頭していく。しかしアフガニスタンは南ヴェトナム解放接線のような統一権力が存在しなかった。

⑥ソ連でゴルバチョフ政権が成立したがソ連のイメージ低下、ソ連の軍が弱体化していき、社会主義のイデオロギー自体が不成立となっていたなど複合的な理由がありソ連は撤退した。10年の介入は失敗に終わった。そしてソ連はロシア革命から約70年後である1991年に崩壊する事となった。

⑦ソ連軍は1989年に撤退した。ここからアフガニスタンは新しいフェイズに突入する。

人民民主党のナジブッラーは軍の撤退後もソ連からサポートを受けていたがソ連が崩壊した事で後ろ盾を失い崩壊した。

⑧ムジャヒディーン政権が政治を担うが統一意識に欠けており
各勢力が政府機関などを勝手に占拠するという状況であった。

⑨続いてイスラーム協会とイスラーム党が対立したが権力を握ったのはアフガン紛争で活躍したマスード将軍のイスラーム協会だった。マスードは新政権の国防省となった。

⑩ここにイスラーム党やイランがサポートするシーア派勢力、サウジアラビアがサポートするワッハーブ派の勢力が対立した。

さらに地方でも旧ムジャヒディーンの有力者が台頭してカオスな状態となっていた。

⑪この混乱から登場したのがパキスタンがサポートをしパシュトゥーン人によるイスラーム主義勢力であるタリバン(=神の学生)であった。アフガン紛争で多くの難民がパキスタンに流入し彼らの一部はパキスタンの神学校で学びタリバンに成長していった。

⑫タリバンはアフガニスタンに戻るとパキスタンのサポートを受けつつ新興の武装勢力として組織された。ソ連と戦って軍閥となった旧ゲリラと対立をして1996年には首都カブールを制圧して実質的な支配権を得た。このなかでサウジアラビアやアメリカから資金援助を受けていた。

⑬タリバンは権力掌握に厳格なイスラーム教にのっとった政治を行った。女性を教育や就業の機会から排除し、体罰刑、娯楽の禁止、反シーア派政策などは国内外から大きく批判された。アフガニスタンの仏教遺跡もタリバンによって破壊された。

⑭タリバン支配に対抗するために通称北部同盟(アフガニスタン救国・民族イスラーム統一戦線)が樹立されるが、タリバン政権に徐々に圧迫された。マスード将軍は2001年9月9日に暗殺された。この2日後に9・11同時多発テロが起きた。

⑮タリバンは首謀者オサマ・ビンラディンの引き渡しを拒んだ。アメリカ軍を中心とした有志連合諸国の攻撃を受け同年末に失脚した。北部同盟の勝利となり新政府は2004年の選挙でカルザイがアフガニスタン・イスラーム共和国の初代大統領となった。

⑯2011年にアメリカの特殊部隊がパキスタンでオサマ・ビンラディンを発見し殺害に成功した。

⑰2021年5月にアメリカ軍が撤退開始した事に伴いタリバンが全土を征服し再び政権を掌握した。ハッサン・アウンドが暫定政権の首相である。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社

この記事が参加している募集

学習教材(数百円)に使います。