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【日本史7】鎌倉史備忘録12

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①頼朝は付き従った家臣たちによって
鎌倉幕府を樹立する事ができた。挙兵当時の頼朝は
家柄は高貴な流刑者であって1人での挙兵は困難であった。

②頼朝と家臣たちの関係は規律と序列が重視されたが制度化された厳格なものではなかった。

この時代の主従関係は脈々と続いていく事が前提ではなかった。上司-部下ではなく親分-子分の関係である。

③1186年(文治2年)の重臣千葉常胤との酒宴や1181年(養和元年)に三浦氏の地元である三浦(神奈川県三浦市)で三浦(岡崎)義実に水干を与えた話などから家臣に従われていた事がわかる。

④頼朝は自らを頂点とするピラミッド型の家臣団編成を目論んでいたので裏切った場合や地位を脅かす者に対しては容赦しなかった。そして源氏の棟梁は義仲や義経ではなく頼朝である事を自負していた。

⑤頼朝は関与しない御家人とは台頭な関係に努めた。御家人たちは鎌倉へ出てきて対等に雑談や酒宴、双六に興じた。将軍の元での対等は意識されていたと云える。

⑥1198年(建久9年)に頼朝は馬上で倒れた。翌年に頼朝は亡くなった。ここに頼朝と家臣たちの関係は終焉した。付き従って来た御家人たちの関係は一気に悪化する事となった。ローマ帝国の帝国と植民地関係に類似している。

⑦頼朝の御家人は伊豆に配流された時期からサポートしていた安達盛長、承久の乱を勝利に導いた大江広元、源頼朝の乳母・比企尼の猶子である比企能員、頼朝亡き後に鎌倉を支配した北条義時、幕府樹立に寄与した梶原景時、幕府では頼朝の右腕となった畠山重忠、関東大豪族であった上総広常などであった。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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