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【歴史のない日本伝統12】母親育児幻想

右翼は低偏差値であったり歴史を知らないのに「日本の伝統が大事だ」とすぐに云う。しかし右翼が強調する伝統や歴史観などウソだらけで伝統性など乏しいものばかりだ。

今回は母親育児の歴史のなさを説明する。
母親が育児をするようになったのは明治時代からだ。

「結局なんだかんだ云っても育児は母親がするものだ」
「お母さんが育てる事で子どもはすくすく育つ」
と嘯く右翼やスピや教育関係者は一発でアホなのがわかる。

母親以外で育児を担当していたのは乳母であった。乳母は母親に代わって乳を飲ませるだけが仕事ではなかった。

乳母の歴史は古く『日本書紀』にも登場する。『続日本紀』には飛鳥時代に多くの子どもを産んだ家には朝廷から乳母が支給されたという記録が残っている。

平安時代になると子どもの教育係も担当する事となった。源氏物語の光源氏の乳母は大弐の乳母(めのと)と呼ばれていた。

創作ではあるが母乳で育てる時期が過ぎても乳母は教育係をしていたのだ。

男子の乳母は子どもが元服するとその役目を終えた。しかし女子の乳母は一生連れ添っていたと云われる。また乳母は1人とは限らず数人が担当した事もわかっている。

平安時代から鎌倉時代には夫婦が養育係をする事もあり平安時代末期の武将である清原家衡の乳母は千任という男性だ。すなわち乳母というのは男性も含んでいるのだ。

その後教育係としての乳母の存在は広まり江戸時代には上級階級にとどまらず下級武士や商人、豪農の間でも乳母は雇用された。また庶民の間でも近所の女性が代わりに母乳をあげたりしていたのだ。

江戸時代は「父親が子どもを育てた時代」と云われている。

教育学者の太田素子は著書『江戸の親子 父親が子どもを育てた時代』(吉川弘文館)でその旨を記している。ゆえに男性向けの育児論が多かった時代だった。

授乳などの直接的な役目は女性が担いつつも男性は教育などの面において大きな役割を果たした。

江戸時代中期の朱子学者で政治家だった新井白石は4歳から5歳のころから父親とともに『太平記』の講釈を聞くなど幼児教育を受けていた。江戸時代後期の思想家である林子平が記した『父兄訓』では育児の監督責任は父親にあると明記している。

花見や祭り、神社参詣などに子どもを連れていくのは父親の役目であった。

家父長制度(血縁ではなく家そのものを重視する)により優秀な跡取りを育てる必要があったために女性に教育を任せられないという意識もあったと云えるが男女による育児分担はなされていた。

ここまでは武士や町人の話であるが農村も同じようなものだった。農村部における子どもは早くから共同体の一員として地域ぐるみで育てられていた。田植えや稲刈りという繁忙期に入ると男女の区別なく作業は行われていた。

そういった際にリタイアした高齢者が子どもの面倒を見ていた。また父親は自分のそばにおいて作業の様子を見せていた。思春期になると若衆宿という小屋で集団生活を送る事もあった。

農耕産業の基本は地域連帯なので子どもは個人のものではなく地域に属したものだったのだ。

明治時代に入ると一般の乳母制度はなくなった。良妻賢母の教えのもとに育児と教育は母親に強いられた。農村部では地域の育児意識は多少はあったが大正時代から昭和初期に薄れていった。

育児=母親がするものという価値観は近代日本がつくりだした幻想でありこの現代日本においてもこの幻想は継承されている。

母親育児幻想を嘯く鈍臭いおじさんやおばさん、頭の悪い右翼やスピや教育関係者が一定数存在する。

(結論)

長い歴史で見れば乳母が子どもを育てる慣習が伝統的であった。江戸時代の家父長制度(家自体を守る)では父親が率先して教育に参与して後継者づくりに励んでおり農村では地域のなかで育児をしていた。母親が子どもを育てるという価値観には大日本帝国政府の官製的思惑が入っている。

■参考文献
『日本人が大切にしてきた伝統のウソ』オフィステイクオー 河出書房新社

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