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【歴史概要78】第1次ポエニ戦争・第2次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)・第3次ポエニ戦争

①シチリア島の西方、北アフリカの中央部にはカルタゴがあり
シチリア島は地形的に見るとローマとカルタゴの中間に位置している。ゆえに地理上対立は必然であった。

②シラクサの僭主が傭兵軍団に支配されていたメッシナの町を回復するためカルタゴと手を組み傭兵軍団側がローマにサポートを求めてきた。これがポエニ戦争のきっかけとなった。

③BC264年にシチリア島で戦いが始まった。陸戦に強いローマがカルタゴ軍を圧倒した。海軍力ではギリシアと密な関係を持つカルタゴは海戦でローマを苦しめた。

④ローマ軍船に工夫を加えて相手方の船に取り付ける「カラス」と呼ばれる桟橋を開発した。ローマ兵が相手方の軍艦に乗り移り船上で戦える戦法を編み出した。

こうしてカルタゴを追いこんだ。

⑤断続的に23年間戦争をしてローマは勝利した。ローマは初の海外領土としてシチリア島を獲得した。これが第1次ポエニ戦争である。

⑥敗北したカルタゴはシチリア島を失った。有力者の1人である
ハミルカル・バルカスがイベリア半島に渡ってカルタゴ・ノヴァ(新カルタゴ)を樹立し軍隊編成を行った。

⑦BC221年にハミルカル・バルカスの息子であるハンニバルはローマ討伐のために行動を始めた。多くの軍象を従えてBC219年に南フランスを東進した。北からアルプスを越えるという行進を行いイタリア半島に入った。

⑧ハンニバルは半島北部の戦いで勝利して南下してきた。

ローマはファビウスの指導で直接対決を避けようとしていたが、勝ちを急ぐようになった。BC216年のカンネー(カンナエ)の戦いでハンニバルの術中にはまった。6万ともいわれる軍団が包囲され殲滅された。

⑨ローマは神経戦を使いながら、海軍力を利用してイベリア半島を攻めてカルタゴの本拠地を狙った。カルタゴ本国はハンニバルを召喚した。最後の舞台がザマの会戦となった。

⑩この戦いに先立ちローマのスキピオ・アフリカヌスとハンニバルは会見したが和平の交渉は決裂して開戦となった。カンネーの戦いの逆手をとりローマ軍がカルタゴの作戦を封じ、勝利した。

これが第2次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)である。

⑪カルタゴは地中海の全領土を失った。莫大な賠償金を課せられた。ハンニバルは改革を着手し賠償金の支払いを行った。しかし反ハンニバル勢力の抵抗やローマが急速なカルタゴ復興に危機感を持つようになった。

⑫ハンニバルはセレウコス朝シリアに亡命した。シリアはローマと戦って敗れた。ハンニバルは各地を転々として最後は自害した。

⑬敗北したカルタゴは再び経済力をつけていった。農業生産力は際立っていた。元老院議員で農学者のカトーは果物を食べてカルタゴの豊かさを実感した。

⑭カルタゴから独立した隣国のヌミディアがカルタゴへ侵入をくり返すようになった。カルタゴはヌミディアとの戦争の許可をローマに求めたがローマは許容しなかった。

⑮カルタゴはヌミディアと開戦した。ローマは第2次ポエニ戦争後の講和条約違反ということでカルタゴに宣戦した。カルタゴは3年にわたり抵抗したが陥落した。ローマはその土地に塩をまき農業ができないようにしたと云われている。

⑯カルタゴ人は奴隷に売られた。カルタゴは完全に滅亡した。第3次ポエニ戦争はスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)が指揮官であった。第2次ポエニ戦争でハンニバルと戦ったスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)の義理の甥であった。

⑰第3次ポエニ戦争に随行していた歴史家のポリビオスは『歴史(ローマ史)』のなかでローマの政体の考察をしている。

⑱ローマの政治体制は王政・貴族政・民主政・衆愚政と展開するという政体循環論を唱えた。またローマは元老院(セナトゥス)・執政官(コンスル)・民会により貴族政・君主政・民主政の調和した混合政体として評価した。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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