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【日本史7】鎌倉史備忘録22

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①小さな部族であるモンゴル部のリーダーとなったテムジンによって遊牧部族が統一された。

②テムジンは諸部族を次々と制圧してモンゴル高原の覇者となった。そしてチンギス=ハンと改名した。ハンとは北方遊牧民族の君主の称号である。

③1206年に遊牧民の大国家としてモンゴル帝国を樹立した。中国の金を倒し、中央アジアの西遼(トルキスタン周辺)やホラズム・シャー朝(西アジアから中央アジア)も倒した。

④チンギスハンが亡くなったあと、後継者のオゴダイは勢力を広げた。金を滅亡した後は南ロシアを制圧し、東欧まで侵略した。オゴダイの死後はモンケを経て侵略地にチンギスの子孫が支配する強靭な国家が建国された。

⑤モンケの死後のフビライハンは後継者争いを優位に進めた。国号を元と改めた。ユーラシア大陸の東側の統治を強化したフビライは南宋への攻勢を強めて、高麗を服属させた。そして南宋と交易を行う日本への進出を試みるようになった。

⑦この当時の日本は連署の北条時宗を7代目執権北条政村が支えていた。

⑧1266年(文永3年)には一時的に引付を停止し評定衆も合議制を弱体化させるなど執権・連署への権力集中が顕著になった。外の勢力が反発するようになった。

⑨元のフビライは高麗を通じて幕府への働きかけを始めた。1268年(文永5年)にフビライは使者に国書を持たせ幕府へ届けた。

⑩国書の内容は表面上はあくまで日本と対等に親しく付き合うため国交を要求する穏やかな内容だったが明らかに服属を狙っていた。

⑪国書を受け取った日本側では幕府は朝廷に対応を伺い、朝廷で合議が重ねられた。後嵯峨天皇(88代目)は「返事は出さず、使者も送り返す」と決めた。

⑫元との戦争を前提に戦闘態勢の準備を命じた。この頃に幕府で8代目執権の座についたのが18歳の北条時宗であった。

⑬後にモンゴル側は何度も使者を派遣して朝廷は返書だけは出すべきと考えを改めたが時宗は拒絶した。

1272年(文永9年)には元への対策として九州の守護らに筑前・肥後(九州北部)の警固を命じた。

⑭豊前(大分県)の守護である大友頼泰は配下の御家人たちに警固を割り振って担当させた。後に異国警固番役となり制度化された。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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