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【歴史概要79】へレニズム諸国・同盟市戦争・第1回三頭政治・第2回三頭政治

①ペロポネソス戦争後、ギリシアではマケドニアが台頭した。アレクサンドロス大王はBC334年にペルシアを討伐するために東方遠征を行いエジプト、シリア、ペルシア、インド北西部を支配して大帝国を樹立した。

②アレクサンドロス大王の死後に大帝国が分裂した。そういった諸国をヘレニズム諸国という。バルカン半島にはアンティゴノス朝のマケドニア、小アジア(トルコ)からシリア、イランを越えて中央アジアにはセレウコス朝シリア、エジプトにはプトレマイオス朝という大国家が3つあった。

③他にはペルガモン王国やロードス島、ユダヤ国家(ハスモン朝)があった。ローマはこれらの諸国を次々に併合していった。

④第2次ポエニ戦争のころからバルカン半島のマケドニアと戦っていたが第3次ポエニ戦争と同じころの4度目の戦争で滅ぼした。

⑤マケドニアの支配下にあったギリシア人ポリスは解放されたがローマがそれらのポリスを支配する事となった。ローマは帝国主義に転じていく。

⑥ヘレニズム諸国の中で最大国家はシリアだった。ここから中央アジアではバクトリア、イラン高原ではアルサケス朝パルティアといった国々が独立した。小アジアではアッタロス朝のペルガモン王国、シリアではユダヤ人のハスモン朝も成立した。

⑦ペルガモン王国は繁栄したがアッタロス3世の死後に遺言で領土はローマに譲渡された。シリアはBC2世紀からのローマとの戦いで領土を奪われてBC63年に滅亡した。

以後パルティアが台頭する。

⑧エジプトのプトレマイオス朝は最後に君臨したクレオパトラをめぐってカエサルとアントニウス、オクタヴィアヌスの絡む対立の場となった。BC30年に滅亡した。これによりローマ帝政が成立するベースとなっていく。

⑨ローマ護民官ティベリウス・グラックスはBC133年にリキニウス法の復活をはかった。没落農民に土地を与えたが失敗した。10年後に弟のガイウス・グラックスも改革に取り組んだが上手くいかなかった。兄弟ともに反対派に倒された。

⑩ローマでは元老院の権威に陰りが見られた。平民会の平民派(ポプラレス)といわれる政治勢力が台頭してきた。これが閥族派(オプティマテス)よりも優勢になってきた。

⑪BC2世紀の末期にローマはヘレニズム諸国や北アフリカのヌミディア王ユグルタと戦っていた。平民派のマリウスは無産平民を私兵化してヌミディア問題を解決した。侵入ゲルマン人問題にも対応をした。

⑫閥族派のスラがマリウスに対抗した。軍隊でローマを占拠し反対派を粛清した。

BC91年にはイタリア半島のローマの同盟市が平等な市民権を要求して反乱を起こした。これが同盟市戦争である。

⑬BC73年には剣奴であるスパルタクスが反乱を起こし奴隷が呼応した。同盟市戦争は平等な市民権が与えられた。スパルタクスの反乱は鎮圧された。

そしてポンペイウス、クラッスス、カエサルの3人が台頭する。

⑭BC60年に3人は元老院に対抗して私的盟約を結んだ。これが第1回三頭政治である。

クラッススはパルティアとの戦いで戦死した。ポンペイウスはエジプトに逃れて暗殺された。ガリア(フランス)遠征で成功したカエサルはBC46年に独裁権力を樹立した。

⑮BC44年にカエサルが終身ディクタトルに就任したがプルートゥスなどの共和派勢力に倒された。しかし共和政に政治力はなかった。カエサルの部下であるアントニウスはカエサルの評判を利用して共和派を追放した。

⑯アントニウスとレピズスとカエサルの養子であるオクタヴィアヌスの3人でローマ再建3人委員会を発足した。

これが第2回三頭政治である。レピズスは失脚して田舎に隠棲して生涯を終えた。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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