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【歴史のない日本伝統17】相撲(国技)

右翼は低偏差値であったり歴史を知らないのに「日本の伝統が大事だ」とすぐに云う。しかし右翼が強調する伝統や歴史観などウソだらけで伝統性など乏しいものばかりだ。

今回は相撲(国技)の歴史のなさを説明する。
相撲は昔からあったが国技ではなかった。

日本の国技といえば相撲だと思っている人が多い。

相撲は歴史は古いが国技となった事は近代まで一度もなかった。相撲最盛期の江戸時代ですら囲碁が国技だった。

相撲が国技となったのは20世紀に入ってからだ。明治維新後に多数の西洋文化が流入するなかで日本古来の文化風習は前時代的と軽視する風潮があった。

1876年(明治9年)5月26日付の『朝野新聞』では「野蛮人のすることなので政令で禁止するべき」という趣旨の投書が載せられている。

相撲排斥の動きに相撲団体は危機感を持った。

力士の消防団である「力士消防別手組」を組織して世論の反発を和らげようとした。天皇皇族が観覧する天覧相撲も1881年(明治14年)から7回行われた。

日清戦争でも多数の力士が志願兵として従軍したため相撲排斥運動は沈静化していった。人気は戻ったが開催場所の問題が生じた。明治までの相撲は野外か掛け小屋で行うものだった。しかし近代国家として面子を保つために新会場計画が持ち上がった。

こうして1909年(明治42年)に国技館が完成した。この完成により相撲を国技に位置付けることとなった。

常設館委員会は小説家の江見水陰に初興行披露状の執筆を任せていた。その中で水陰が記したのは「角力(相撲)は日本の国技」という一文であった。国技館の名称はここから命名された。

浅草、京都、名古屋、大阪と各地に国技館が建立されていき日本の国技は相撲という認識となっていった。相撲=国技という概念は明治の末期に国技館を完成することによって広がった新概念だったのだ。

相撲は国技となったので近代競技化を目指してルールや作法が整備されていった。古来の伝統とされる「土俵の女人禁制」もそのなかに入っていた。

江戸時代の女性は千秋楽以外の日は観戦を許されなかったが社会全体が男尊女卑であったため相撲に限った話ではなかった。

また土俵が現在の形になったのは1699年(元禄12年/5代目綱吉)なので土俵の歴史はそこまで古くない。最初から土俵が女人禁制であっても相撲の歴史のなかでは新しいものだった。

当時は男女の混合相撲はよく行われており女相撲という女性のみの相撲もあった。現在でも神事として残っている場所もある。

『日本書紀』によれば最初に宮中で相撲を取ったのは女性だった。雄略天皇(21代目)の時代に自分の腕前を自慢する木工を失敗させるため女官に相撲を取らせたと云われている。

また行司の基本様式が完成したのも1910年(明治43年)のことである。

鎧直垂に大型の侍烏帽子をかぶって軍配を構えるという姿そのものが新しいものだったのだ。昭和時代には三段以上の行司は草履、それ以下は足袋(たび)を履くこと事が作法に追加された。

(結論)

相撲は古い競技として存在はしていたが明治維新の流れで排斥運動が起こった。その後に国技館が作られて明治末期以降に日本国技として認識されるようになった。

国技相撲の歴史はきわめて浅い。

土俵の女人禁制は長い歴史で見ると新しい慣習である。過去には男女の混合相撲や女性のみの相撲は行われていた。現在の行司スタイルが確立されたのも明治末期の事であった。

■参考文献
『日本人が大切にしてきた伝統のウソ』オフィステイクオー 河出書房新社

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