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【歴史のない日本伝統14】初詣

右翼は低偏差値であったり歴史を知らないのに「日本の伝統が大事だ」とすぐに云う。しかし右翼が強調する伝統や歴史観などウソだらけで伝統性など乏しいものばかりだ。

今回は初詣の歴史のなさを説明する。
初詣は明治時代に鉄道会社の戦略で生まれたものだった。

年が明けて正月のお出かけは初詣だと信じられている。しかし初詣は明治時代になり始まったものだった。

江戸時代には正月は歳神様を家に迎える日なので自宅にこもって外出しないのが習わしであった。

門松は歳神様が降りてくる時の目印で注連縄(しめなわ)は神聖な場所、鏡餅は歳神様に捧げるものだった。

大晦日の夜に参詣する除夜詣や新年まで神社にこもる年ごもりという風習はあったが夜が明けて家に帰るとそのまま過ごすのが通常だった。

その年の縁起のいい方角にある社寺へ元日に参る恵方詣もあったが初詣という言葉はなく初詣の認識などなかった。

歳時記で確認すると初詣が誕生するのは1907年(明治40年)ごろである。

実際に初詣を詠んだ歌が現れるのは大正時代以降である。初詣が俳句の季語として習慣となったのは約100年前のことである。

初詣は鉄道網の発展によって生まれたといってもいい。1872年(明治5年)に日本で初めての鉄道が品川から横浜間で開業をする。

しかし現在のように通勤や通学で列車に乗る事は少なくほぼレジャー目的だった。レジャーといっても概ね寺社への参詣であった。その恩恵を受けたのが川崎大師である。

1128年開山の川崎大師は関東三山の一つで徳川第11代将軍である徳川家斉が自身の厄年に二度にわたって参詣した事がきっかけとなり厄除けにご利益ありとして発展した。川崎大師の縁日は毎月21日でありこれに官設鉄道(JR)が目をつけた。

川崎大師の縁日で最も賑わったのは1月21日の初大師だった。明治時代も中頃になると東京ではホワイトカラー層が増えていき日曜日の休日が広まる。そのため21日の参詣が難しい人は正月の3が日に出かけるようになる。

この様子を当時の新聞は「ちよツと汽車にも乗れ、ぶらぶら歩きも出来、のん気にして、至極妙なり」(『東京朝日新聞』1891年(明治24年)1月3日)と報道した。この習慣が新聞によって初詣と名付けられたのだ。

1899年(明治32年)に民間の大師電鉄が官設鉄道の川崎駅付近と川崎大師を結んだ。これが京急電鉄の前身だ。関東三山の一つで千葉の成田山新勝寺でも初詣ブームが起こり官設鉄道と京成電軌(京成電鉄)が乗客争奪戦を繰り広げた。

この激しい競争によって元日の早朝以降が当然だった初詣の時間帯を変えた。1927年(昭和2年)に省線(国有電車)は大晦日に両国駅を出発する成田臨時列車を運行した。

1年後に京成は終夜運転を導入した。1931年(昭和6年)には省線が大晦日から成田初詣臨時列車の終夜運転に踏み切って他の私鉄も次々と追随した。こうして大晦日から元旦の末明にかけて参拝する二年参りが定着する事となった。

(結論)
正月は自宅にこもって外出しないのが通常であり理にかなっていた。明治中期に鉄道会社のキャンペーンによって乗せられた人々が初詣ブームを形成していった。

昭和前期に二年参りが定着する事となった。

結局初詣は近代国家日本を形成する過程で生まれたものであり伝統的なものとは言い難い。初詣とはB層をご利益ビジネスで釣るためだけに存在するものだ。

■参考文献
『日本人が大切にしてきた伝統のウソ』オフィステイクオー 河出書房新社

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