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【日本史7】鎌倉史備忘録29

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①鎌倉新仏教3番目に登場するのが浄土真宗の
始祖である親鸞である。1224年(元仁元年)に開山した。
親鸞は9歳で比叡山に入り20年間修業をした。

②下山して法然の弟子となった。法然が処罰された際には親鸞も流罪を言い渡された。罪を許された親鸞は関東を中心に布教活動を行った。

③法然の考えを継承しながら罪深い悪人こそが救われる対象だとする「悪人正機説」を説き農民たちを中心に信仰された。

④親鸞は法然と同じく宗派を開く気はなかった。弟子の唯円が親鸞の教えをまとめた『歎異抄』の教えが広まり弟子や子孫たちによって教団が形成された。

⑤鎌倉新仏教4番目に登場するのが曹洞宗の道元である。道元は比叡山で修業後に栄西の弟子である明全に師事して臨済宗を学んだ。その後、宋に行きひたすら禅だけに打ち込む只管打坐を重んじる如浄と出会った。

⑥1227年(安貞元年)に帰国した道元は北条時頼に「鎌倉に寺院を開山してほしい」という願いを断り禅の普及と越前国(福井県)に開いた永平寺で弟子の育成に専念した。

⑦基本姿勢は著書『正法眼蔵』にある只管打坐による厳しい修行を重視したものである。臨済宗は禅宗の戒律を重視したが曹洞宗は禅を行う事自体を重視している。また栄西は末法を認めたが道元は認めていない。

⑧鎌倉新仏教5番目に登場するのが日蓮宗の日蓮である。1253年(建長5年)に開山した。安房国(千葉県)の漁師の家に生まれて16歳で出家した。諸国を遊学し比叡山でも修行をした。

⑨故郷の清澄寺(千葉県)へ戻ったが法華信仰に目覚めて浄土教を批判して追放された。浄土教信者からの焼き討ち、2度の流罪、弟子たちへの弾圧などで苦しんだ。結局日蓮の教えは最後まで幕府に受け入れられなかった。

⑩1282年(弘安5年)に日蓮は亡くなった。「南無妙法蓮華経」という題目を一心に唱え続ける事が強調されている。日蓮は『立正安国論』という著書を北条時頼に届けた。法華経を中心とする国づくりの必要性を説いたが黙殺された。

⑪『立正安国論』で説いた「このままでは外敵の侵入を許す」という予告がモンゴル襲来という形で具現化されたので生前から日蓮の言動を見直す動きもあった。

⑫鎌倉新仏教6番目は時宗の開祖一遍である。

一遍は10歳で出家し浄土教の修行に励んだ。一度は仏門を離れたが30歳を過ぎて再度出家した。

⑬やがて平安時代の僧侶である空也にならって踊念仏を始めると人気になった。遊行上人として全国を回り民衆から熱狂的な支持を得た。

⑭教えを唱え踊れば極楽浄土へ行けるという姿勢は他の宗派で救われなかった字が読めない人たちへのメッセージがあったと云われている。

⑮旧仏教とされる既存宗派にも動きがあった。華厳宗の明恵や法相宗の貞慶は戒律を重んじて風紀の引き締めを図った。律宗の叡尊と弟子の忍性は貧しい人々を救うなど宗派再興に力を入れた。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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