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【日本史7】鎌倉史備忘録18

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①1221年(承久3年)に後鳥羽は協力を拒んだ京都守護である伊賀光季(みつすえ)の討伐を手始めに北条義時の追討を命じる院宣を発給した。承久の乱が勃発した。

②後鳥羽軍は西国の守護や在京の御家人たちであった。
鎌倉幕府の制度に組み入れながらも朝廷につくことを選んだ。

③東国の武士たちの多くは幕府方についた。北条政子が「頼朝の御恩は山より高く、海より深いではないか」と演説したというエピソードがあるが事実かどうかは不明である。

④幕府側は各地から集まり都に攻めこんだ。幕府方は1ヶ月足らずで都を占拠し朝廷方に勝利した。

⑤乱に関与した後鳥羽(82代目)・順徳(84代目)・土御門(83代目)の3上皇、皇子の雅成・頼仁親王らは流罪となった。仲恭天皇(85代目:在位は78日で最短)は廃位となった。

協力した多くの公卿や御家人は排斥された。多くの天皇陵は幕府が没収、西国支配を任務とする六波羅探題が京都に設置された。

⑦朝廷と幕府の関係は幕府優位となった。後高倉上皇や後堀川天皇(86代目)の皇位継承にも幕府は関与し幕府による皇位継承への関与は以後の通例となった。

⑧承久の乱での朝廷方の敗因は後鳥羽が自身の権威を過信したと
考えられてきた。近年は後鳥羽は倒幕が目的ではなく北条義時の排除が目的であったと云われている。

⑨天皇の敗北は朝廷にとって衝撃であった。日本では6世紀に崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺された以外に天皇が殺害されたことはなかった。

⑩天皇を倒し、自らが天皇になるという発想は武士にはなかった。天皇を倒すと自分たちの権威が衰退する説や天皇神事は武士には代行不能とする説などがある。

⑪御家人たちにとって天皇は尊敬対象であったが
幕府の存在はそれ以上に必要なものだったと云える。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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