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【日本史7】鎌倉史備忘録9

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①1182年(寿永元年)に平氏は北陸方面で
起きていた木曽義仲ら源氏の反乱の鎮圧にとりかかったが
源氏の軍勢には敵わず倶利伽羅峠の戦い(砺波山合戦)で敗北した。

②打つ手がなくなった平氏は大宰府(福岡県)を目指して
都落ちを余儀なくされた。

③平氏の監視下にあった後白河上皇が脱出に成功した。
安徳天皇と三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉)は確保したが
平氏の正統性という意味で痛手となった。

④京の軍事的支配者となった義仲だったが入京した義仲周辺の
武士たちが京で狼藉を働いたので公卿や後白河は頼朝との連携を深めていった。

⑤都を去った平氏たちはいったん大宰府へ入ったものの九州武士たちの攻撃によって退却せざるを得ず讃岐国(香川県)の屋島へ向かった。

⑥朝廷との関係を強めた頼朝軍が上洛の動きを見せ、朝廷はこれを歓迎し1183年に「寿永二年十月宣旨」を出した。

この宣旨は東国の荘園などを京の貴族や大寺院が取り戻せるように規定したものだった。

⑦反乱軍であった頼朝軍は朝廷から実質的に東国の実力支配が認められた。寿永2年の宣旨は鎌倉幕府成立のきっかけとして評価されている。また朝廷からの独立性という意味では後退だったとも云われている。

⑧後白河から義仲討伐の公認を得た頼朝は義仲を攻めた。義仲は後白河を幽閉し、平氏と連携して頼朝を討伐しようとした。源義経を中心とする頼朝軍に宇治川の戦いで敗北した。

⑨義仲はごく親しい家臣たちと合流するものの挽回にはいらなかった。逃亡中に近江国の粟津(滋賀県大津市)で討伐された。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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