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【歴史概要112】プラッシーの戦い・ザミーンダーリー制

①イギリスのインド進出は17世紀であった。1600年に設立された東インド会社が大きな役割を担っていた。多くの木綿を輸入したのでイギリスの毛織物業が圧迫されていった。

②イギリス本国で木綿の生産を考えるようになった。18世紀後半のイギリス産業革命は絹織物業からスタートした。インド綿花は繊維が短いので機械生産に向かなかった。

③アメリカ南部の綿花プランテーションが主軸となった。しかし生産された木綿市場が問題となった。イギリスは世界上を輸出先としていった。そこにインドは含まれていた。

④インド人はイギリス製の木綿を買う事が強いられるようになった。そのためにイギリスは植民地化する事が重要となった。契機となったのがプラッシーの戦いである。

⑤フランスもインドに進出してボンディシェリやシャンデルナゴルといった都市を確保して商館を建設した。プラッシーはガンジス河下流域のベンガル地方の農村である。

⑥1757年にベンガル太守・フランス連合軍がイギリスに抵抗して戦ったがイギリスが勝利した。

⑦イギリスはベンガルに近代的法体系を導入した。土地・徴税制はサミーンダーリー制と云われる。インドの農民は個人的な土地所有のない農村で共同生活をしていた。

⑧イギリスは所有権という考えを持ち込んだ。土地の所有を認められたのは広い土地を統括していた有力者とした。ザミーンは土地でダールは所有者というペルシア語である。

⑨有力者たちは自分のものになった土地を小作させて所有権を認めたイギリス政府(=東インド会社)に税金を払った。

⑩小作料を払えなかった農民は農村を追放され、税金が払えない有力者は所有している土地を失う事となった。こうして伝統的インド社会は崩壊した。東インド会社はインド統治機関に変質していった。

⑪南インドではライーヤトワーリー制が採用された。ライーヤトいう土地の耕作者に土地の所有権を認めて耕作者から徴税する制度である。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社

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