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【日本史7】鎌倉史備忘録21

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①1251年(建長3年)には北条氏と密接関係にあった足利泰氏が幕府の許しを得ずに出家する自由出家の罪で所領を没収された。謀反計画を立てた千葉氏や九条家と親しかった人々が処罰された。

②翌年に九条頼嗣が更迭された。後嵯峨天皇の息子である
宗尊親王が6代目将軍となった。

③泰氏・謀反人・頼嗣の処罰は結託して時頼を排する計画を立てていたと考えられ、一連の事件は建長の政変という。結果得宗家が政治を支配する得宗専制の先駆けとなった。

④時頼は安定して政治基盤のもとで新裁判期間として引付を設置、京都大番役の改革、西国御家人の救済を行った。

⑤雑人(一般人)訴訟の迅速化や地頭・御家人の横暴を抑制する法律制定、年貢の減額など民衆の生活安定を図る撫民の治を目指した。

⑦1256年(康元元年)に病のため執権を辞し出家した。ただその後も朝廷の院政のように時頼が実権を握っていた。時頼は質素倹約を信条として仏教に深く帰依していた。廻国伝説も存在する。

⑧得宗家ではないが連署として時頼から信頼を得ていた北条重時の息子である北条長時(6代目執権)に移った。長時の死後は北条政村(7代目執権)が昇格した。この2人はつなぎの執権であった。

⑨日本は基本的に中国を中心とした東アジア世界に組み込まれていた。弥生時代には大陸からの渡来人が農耕文化を伝えた。当時の日本の様子は前漢や後漢の歴史書に記録されている。

⑩中国ではBC5000年ごろから黄河・朝貢などの地域に根付いた文明が発展した。秦(BC221年~BC207年)や漢(前漢はBC202~8年/後漢は25年~220年)など大国が誕生した。周辺諸国は見習い中国はそれを良しとした。

⑪中国を中心とする世界の国際交流の形は特殊であった。当時は周辺諸国が中国に貢物を献上して中国は献上品の見返りを周辺諸国に与える朝貢貿易を行っていた。

⑫両者は対等ではなく中国王朝を慕った遅れた国家が中国王朝に従うことを表明すると徳のある君主はこれを認めるといった冊封体制であった。

⑬894年(寛平6年)に菅原道真は遣唐使の中止を提言した。国家規模での中国・朝鮮半島との交流はなくなった。

当時は唐を含めた東アジア世界が荒んでおり、脅威の防衛策としての対応であった。

⑭私的な交流は活発であった。日本僧の中国宋入り、民間貿易は活発であった。朝廷は規制はしなかった。平安時代末期には平清盛は宋と交易を行っていた。これが鎌倉幕府の貿易に影響した。南宋から来日した僧侶は日本の仏教に大きく寄与した。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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