宮崎駿監督作品「紅の豚」の主人公はポルコ・ロッソという名であるが、私は最近までイタリア語で「赤い豚」を意味するとは知らなかった。それまではてっきり「ポルコ・ロッソ」という人物名の固有名詞として捉えていたのだ。因数分解できるとはつゆほども思わなかった。 何にしてもそうではないだろうか。それをそうだとおもってそれ以上分解しないでそのままで飲み込もうとする姿勢は情報を吸収する者として如何なものか。特に現代の情報社会に生きる者として憂慮すべき点である。結果として飲み込むときに分解
私は特別ではなかった。いたって凡人だった。ある日突然才能が開花するものだと思っていた。等身大に生きようなんて志してもやっぱりどこかで背伸びをする自分がいた。心に決めたこともできないまま日々を過ごすことがいっぱいあった。失敗を繰り返して変わったかと、成長したかと思う度に同じようなミスをして、つまらない人間で惨めで惨めで仕方ない。自分は何かになれるかもしれない、という羨望が自分を洗脳して、いつからか自分は何者かになれるものだとばかり信じていた。違った。凡人だった。耳障りのいいお
語彙力の定義 私に言わせれば「語彙力」とは「自分の感情や思考を相手に伝わるように(誰かに伝えるでないにせよ)きちんと自分の言葉で言語化できる能力」を指し示す言葉であり、決して日常生活で使わないような難しい故事成語の類を知っていることではないと思うのだ。重なっている部分があるにせよ、それらはむしろ雑学知識の領域だろう。語彙力の本質は「言語化できる能力」であり、もっと踏み込むなら「何を言葉にして、何を言葉にしないか弁えることができる能力」と言っていい。 感覚的な話なので理解
行動力が低いが故にやるべきことを先延ばしにしたり後回しにしたりするのは違うのでないだろうか。 問題は行動力の低さではなく、もっと根元にあり、コレが変わらない限り永遠に行動も変わることは無い。言い換えればコレさえ変われば劇的に行動を起こせるようになるとまで言っていい。 私に言わせれば、行動力の低さを生み出しているのはそもそもの思考が粗悪品だからである。 例えば、宿題をやることが当たり前だと思っている小学生にとって宿題をやることは当人にしてみれば至って自然なことであり、反
様々な意見があろうと思うが私個人としては同性同士ですら仲良くできるか怪しいのに、まして同じ人間という種の片割れといえど感性が全くと言っていいほど異なる異性間で友情が成立するかなんて全体の割合から見て「成り立たない」ほうが多いと考えている。 確かに違いがあるが故に魅力的に映ったり親交が深まるというのはあるだろう。しかし、見落としがちなのは「相手はどう思っているか」である。一方方向の友情は少なからずどちらかが無理をしているものだ。 上記を踏まえてもやはり、「成り立たない」の
それ以前から流れはあったものの本格的に産業革命から200年間、人間も労働資本の一つと見なされて使役されてきた訳であるが最近になって漸く人間は資本などではなく「みんな考えがある生き物だよね」という考えが浸透しつつある今日この頃に「転職」という人間の資本化が再び主流になりつつあるのがなんとも歴史を繰り返す所詮人類という感じがする。 いや実は何も変わってないのかもしれない。外面や体裁が変わってあたかも変化の過渡期にいるように錯覚しているだけかもしれない。思えば、アメリカ合衆国で
会話する上で「9:1の法則」が重要だと思っている。 自分の発言の全体量を1(相手の発言に対してのレスポンス ;なるほど、確かに 等)と9(自分の意見、感想)に分けて話すというものだ。相手の言ったことに対して一旦クッションを挟んでから自分の意見を言うみたいなラリーだと思ってくれればいい。 人の話を聞くのが好きなので人の会話の内容や話し方に耳を傾けることが(場合によっては聞き耳をたてていることもしばしば)あるのだが、サークルなどで10:0でずっと話す人(相手が言ったこと
「インスタ交換しようよ!」と言われたことは誰しもが一度はあることだろう。そのこと自体嬉しいといえば嬉しいのだが、同時に何とも言えない複雑な気分にも同時になるのは私だけだろうか?この記事が同じ気持ちを抱える人にとって何かの手助けとなれば幸いである。 「インスタ交換しよう!」とは まず始めに、「インスタ交換しようよ!」の行間について探っていこう。大方の場合、「貴方のことをもっと知りたいです、ぜひ仲良くなりましょう!」であろうと思われる。これは何とも嬉しいことである、自分
世の中に似たような意味の言葉は幾つもあるがどれも微妙に違う。しかしその違いがあまり意識されず時に間違って使われているように見受けられるので、今回はその中でも自分の中では区別しているものを紹介したい。そして読んだ暁には、ぜひ同じように似たような意味の語と言えど区別して使えるようになってもらいたい。 「優しい」/「親切」 どちらも敬愛や友愛を意味する表現であるが、私が両者に区別をつけている点は「(対象者に)厳しく在れるか」である。では、もう少しかみ砕いて説明すると、「(そ
言語と切っても切り離せないのが「不規則変化」だ。言語にもよるが動詞、形容詞、冠詞など不規則変化する類は多岐にわたる。これが言語の言語たらしめる所以であり面白くさせている点でもあるのだが、学習者にとってはこれが壁となることは想像に容易いだろう。 英語、フランス語、イタリア語を学んだ経験からして自分が苦労したのもここだ。なにしろ学習者はまず正則を覚えなければならない上に、決まって序盤ほど不規則系が多い。いったい何故なのか。 答えはいたってシンプルである。使う頻度が多いからで
「多様性を認めないという多様性」は多様性の1つとして受け入れられるのだろうか。「世の中常識なんて無いという常識」は常識になり得るのだろうか。 はたまた両者ともに個々人の心の中にあるものであって、外側の「多様性」や「常識」は内側のそれと別に考えろという話なのだろうか。そう考えればシュレディンガーの猫のように、両者が相反するものでありながら観測するまでは存在し続けることが出来るだろう。 では「自分を拒絶する自分」は自分になるだろうか。その先に何が待っているのだろう。自己嫌悪