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#2【雑記・多様性とは】

 「多様性を認めないという多様性」は多様性の1つとして受け入れられるのだろうか。「世の中常識なんて無いという常識」は常識になり得るのだろうか。
 はたまた両者ともに個々人の心の中にあるものであって、外側の「多様性」や「常識」は内側のそれと別に考えろという話なのだろうか。そう考えればシュレディンガーの猫のように、両者が相反するものでありながら観測するまでは存在し続けることが出来るだろう。
 では「自分を拒絶する自分」は自分になるだろうか。その先に何が待っているのだろう。自己嫌悪の程度によるだろうが、よくあるのが他人の中にある「自己」をもって包括的に自己受容した時だが、その時真の自己はどこにあるのだろう。未だにその中にあるのか、それとも受容したい(されたい)自己だけを包み、嫌いなところを切り離した自己の欠片は自己で無くなるのか。ではそれはなんと呼ぶのだろう。

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