見出し画像

就活をやめて憧れの地へ旅立った日のこと

引き出しの奥に眠る赤いパスポート。もう10年近く前、このパスポートを手にして旅立った、あのめまぐるしい一日が懐かしい。

***

まだ寒い春だった。

成田空港第1ターミナルの北ウイングで、私は母に手を振った。この日を心待ちにしていた私は笑顔だったが、母は複雑な表情だったと思う。口にしないが内心かなり心配しているようだ、と兄から聞いていた。

23番ゲートの前でひとり、イスに座ったところで急に涙が込み上げてきた。国内の一人旅すらしたことがないのに、突然海外へ行くなんて。英語力にも全然自信がない。緊張と不安が押し寄せる。たった3ヵ月の短いものだけど、私にとっては大冒険だ。

大学を出て、本来なら社会人になっていたころ。でも私は「一度でいいからイギリスで暮らしてみたい」というぼんやりとした夢を捨てられず、就活を先延ばしにした。シャーロック・ホームズや不思議の国のアリス、ハリーポッターといった作品がきっかけだったと思う。いつからか、強くイギリスに惹かれていた。

ヴァージン・アトランティック航空901便のシートに落ち着いて、ノートとペンを取り出した。家族にはものすごく迷惑と心配をかけてしまった、絶対に成長して帰って親孝行しよう、とひたすら決意を書き続けていた。

ロンドン・ヒースロー空港を目指して飛行機が離陸するとき、隣りの席の見知らぬ青年が、窓の外に向かって小さく敬礼した。彼は故郷へ帰るのだろうか。3ヵ月後、私はどんな気持ちで帰るのだろう。

長い長いフライトの途中でいくつか映画を見たが、内容は全く思い出せない。窮屈な座席で、時間がたつほど腰や背中や首が痛くて、とにかく早く降りたかった。次々出てくるおいしいパスタ、パン、アイスにマフィン、紅茶が私を支えていた。

やっと到着したヒースロー空港では、不機嫌な顔をしたタクシードライバーが待っていた。スーツケースがなかなかみつからず広い空港をさまよっていたので、約束の時間に遅れてしまったようだ。はじめて憧れの地へ降り立ったのに、感慨に浸っている暇はなかった。

タクシーの中でドライバーが何か喋っていたが、私はほとんど聞いていなかった。長旅の疲れと、今オックスフォードに向かっているという状況に、夢心地だった。
大学の街、物語の街、歴史と伝統の街… イギリスの中でも、オックスフォードという街は飛び抜けて魅惑的に思えた。どこでどんな風に滞在するのか、いくつかの候補の中から選んだのは、オックスフォードでホームステイをしながら語学学校に通うというプランだった。

私はいつしか本当に夢の世界へ行っていたようで、ドライバーに起こされた。目の前には、絵本に出てきそうな、花と緑に囲まれた煉瓦造りのかわいい家があった。車に乗ってから体感5分位だったが、もうホームステイ先に着いていた。

家の中から、背の高いブロンドの女性がニコニコしながら出てきた。いい人そうでよかった、と心の底からほっとしたホストファミリーとの初対面。

その日は、簡単に家のことや学校について説明された。もう一人別の女の子もこの家に滞在していて、明日から同じ学校に通うとのこと。スイスから来たその子はものすごく綺麗で、英語も学校に行く必要ないと思うくらい上手で、私はなんとなく恥ずかしい気持ちになった。

とにかく疲れて眠かったのは、時差ボケのせいかもしれない。ベッドの中でときどきふと目を覚ましたり、またうとうとしたり。無事に滞在初日が終わったという安心感と、明日からどんなことが起こるのだろうという緊張感の間を、行ったり来たりしながらまた眠りについた。






この記事が参加している募集

#一度は行きたいあの場所

52,605件

#この街がすき

43,708件