【気まぐれエッセイ】手を差し伸べるとき

中学生の頃、度々日記に書いたこと。今もときどき思うこと。


ー私にとって弱さを救われるということは、強さを認められることー

『強くありたい、自立していたい』という想いと、『甘えたい、全部を受け止めて包み込んでほしい』という相反する欲求が、拮抗し続ける辛さを、私は随分と長い間持て余してきた。


そんな私も今では昔より、甘えたい気持ちを素直に出せるようになった。精神的に少し自立出来たからこそ、寂しいときは「寂しい」と言えるようになった気がする。弱みを、ちゃんと見せられるようになったのは、『人に頼るという判断を自分でしている』という感覚が芽生えてからかもしれない。

そう考えると、人が自分を完全に誰かに委ねられるのって、赤ちゃんの頃だけなのかもしれないね。


だから、やっぱり大切な誰かに手を差し伸べるとき、そんなときこそ尊敬の念を忘れたくない。


少し話が逸れるけど、介護されるお年寄りが望むことと、反抗期の子どもの欲求は、少し重なる部分がある気がしてならない。「もう出来ないけど、自分でやりたい」と「まだ出来ないけど、自分でやりたい」は、少しだけ、似ているのではないだろうか。


今はまだありがたいことに、私の両親はとても元気だけれど、いつかは幼い頃に私がやってもらったようなことを、返していく日々が訪れる。今まさに、母が祖母に、そうしてあげているように。


そうなったときに、この信念を、私は曲げずにいようと思うのだ。


強さをたくさん、たくさん認めてもらえて、はじめて弱さをさらけだせる。私はやっぱり、そう思うから。


幸せな時間で人生を埋め尽くしたい私にとって書くことは、不幸を無駄にしない手段の1つ。サポートしていただいたお金は、人に聞かせるほどでもない平凡で幸せなひと時を色付けするために使わせていただきます。そしてあなたのそんなひと時の一部に私の文章を使ってもらえたら、とっても嬉しいです。