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『2度のうつ病を経験した半生と今』#5
noteをこれから書き始めるにあたって、私のこれまでの歩みを何回かに分けて紹介しています。今回はその第5回目。社会人時代(30代)編です。
5.波乱の社会人時代(30代挫折編)
3年から4年に1度の定期異動を繰り返すシステムだった会社から、私はちょうど30歳の時に異動の辞令を受け、霞が関への出向を命じられました。
時は民主党政権時代。「脱官僚」と「事業仕分け」を旗印に政権を取ったことで混沌とした霞が関で、官僚と一緒に仕事をすることに戸惑いを覚えながらも新しい職場で働き始めました。
世間の風当たりがいくら強くても、官僚の人たちはしかし、荒むことなく、卑屈になることもなく、どこか達観している様子で淡々と、まるで人間の心を失くしたかのように業務をこなしていました。一方の私は、そんな未知の環境に突然放り込まれ、これまでとは価値観の全く違う世界で、周りに頼れる人が一人もいない中、想像以上の激務(毎日午前3時から4時頃に帰宅し、その日の朝9時半には出勤する)に追われる日々を送ることになりました。
20代の頃にそれなりの激務を経験していたこともあり、働き始めた当初は「何とかなるだろう」という軽い気持ちで、周囲のまるでロボットのように働く人々に合わせて、来る日も来る日もただひたすらに書類の作成と部署間の取りまとめや調整に明け暮れていました。すると次第にふと、
「これは何のためにやっている作業なんだろうか?」
という思いが、ムクムクと心の中で育っていきました。最初から分かっていたことでしたが、あえて気づかない「ふり」をしていました。それでも疲れが溜まって来ていたからでしょうか、その「心の声」をどうしても無視できなくなり、ついにその疑問を自問してしまいました。
「誰の、何のためにこの作業は必要で、そしてそれは本当にその『ため』になることなんだろうか?」
毎日深夜まで働いた挙句、この疑問の答えを周りの人は誰も教えてくれず、そして自分でも考えた結果答えを出せなかった瞬間、私の心は簡単に折れてしまいました。
ある朝、仕事に行くために起きようと目を覚ましても、体が全く動かなくなってしまっていたのです。金縛りとは違い、
鉛の様に重い身体
という表現が一番近いかもしれません。「経験した人にしか分からないツラさ」と表現してしまうと身も蓋もないのですが、とにかくその日は職場へ行くのは難しいと判断し、職場へ電話をかけて急遽休むことを告げました。
「このままでは翌日も仕事へ行けるか分からない…。」
「何とかしなくては…。」
そう思い、文字通り這う様にして助けを求めたのは、自宅近くにあった心療内科でした。重たい身体を何とか押して、昼過ぎにようやく外へ出られそうな具合になったので歩いて行ってみると、その日の診察は既に終わっていました。クリニックの扉越しに電話で必死にお願いして、何とか翌日の午前中に診察を受けられることになりました。夕方、再び職場に事情を説明して、翌日は午後から出勤すると伝えました。
翌日、朝イチで診察を受けた結果、先生からは
適応障害を伴ううつ状態
と診断され、即刻休職するよう忠告されました。出向先での休職ということで多少手続きが煩雑になることを心配していましたが、会社の人事に電話で話をすると、すぐに休職の手続きを取っていただけました。
「まずはゆっくりと身体を休ませてください」
主治医からはそう言われました。当時私は一人暮らしをしていたので、身の回りのことを一人でやることも困難だろうと先生が判断し、実家へ帰って静養するように勧められたため、実家へ戻ることになりました。
最初の一週間から二週間は文字通り「泥の様に」寝ました。正確には、仕事を休み始めた数日は、原因不明のヒドイ腰痛に苦しみ、布団で横になって寝られず、ソファーで座りながらウトウトするくらいしかできませんでした。その後腰痛が和らいでからは、ようやく布団で寝られるようになり、1日の半分以上を布団の中で寝て過ごしていました。起きていても何もやる気がおきず、1日中好きなことができる時間があるにも関わらず、全く何をする意欲もなくなっていました。本を読んだり、好きなスポーツを観戦したり、バラエティー番組を見たり・・・。普段であれば自分の好きなことにも全く興味がわかなくなり、この時は完全に「無気力状態」に陥っていました。生きる意欲すら失いかけていた、「廃人の一歩手前」に近い状態だったと思います。
心療内科へは毎週通院し、先生と毎回色々な話をしていくうちに、先生からは、もう少し考え方を柔らかくしていく必要があることを教えられました。
「〇〇をしなくてはいけない」
「△△はこうあるべきだ」
という凝り固まった考え方を、もう少し柔軟に考えられるトレーニングをしていく必要があると言われました。自分に厳しすぎる面があるとも指摘され、
「そんなに頑張らなくてもいいんだよ」
「時にはサボったっていいじゃないか」
そんな言葉を自分にかけられる様にならないと、この先の長い人生、生きていくのはしんどいですよ。そんな優しい言葉を先生にかけられました。
「適応障害」からの快復は、まず何よりその環境から抜け出すことができれば快復するはずです、と先生はお話されました。私も出向先での職場復帰はツライと感じていたので、会社の人事と話をして出向先から戻り、元の会社で職場復帰をすることになりました。
体調が回復して職場への復帰の目途が立ち、長期療養が終わる直前、私は以前からお気に入りにしている温泉へ日帰りで行くことにしました。特に何かを意図したわけでもなかったのですが、その時の露天風呂から眺める街並みの夜景を見て、自分がどれだけちっぽけで儚い存在なのかを強く感じ、もっと肩ひじ張らずに、自分らしく、自由に生きていけたらいいのにな…、という思いが強く心に染み渡りました。あの時目に焼き付いた夜景と自分の感情は今でも忘れられません。そしてこの温泉地は今でも私にとって、
「心が疲れたな…」
と思った時に、フラッと行くような、心の拠り所になっています。
つづく
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