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歴史を騒がせた傭兵隊長たち

 6月24日、ウクライナ侵攻で重要な役割を果たしていたロシアの民間軍事会社「ワグネル」が"反乱"を起こしたというニュースが世界を駆け巡りました。
(※25日現在、ワグネル創設者のプリゴジン氏は、ベラルーシのルカシェンコ大統領の仲介により、モスクワへの進軍を中止したと発表しました。)

「21世紀にもなって、傭兵隊長の反乱が起きるとは!」と歴史ファンの間には驚きが広がっています。

 金で雇われる傭兵は、権力者にとって便利に使えます。一方、俸給の支払いや終戦後の解雇などをめぐって不満が高まり、脅威を与えることも珍しくありません。今日は、「歴史を騒がせた傭兵隊長」の事例を紹介していきます。

①オドアケル

 4世紀後半から、ゲルマン民族の大移動の影響でローマ帝国は衰亡への道をたどっていました。395年、ローマ帝国は東西に分裂。特に西ローマ帝国では、ゲルマン人の傭兵隊長が政治の実権を握ります。
 476年、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケル(434~493)が西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位。西ローマ帝国は滅亡しました。オドアケルはイタリアの領主となりますが、東ゴート王国(ゲルマン人の一派)の王テオドリックに敗れ、降伏したのち暗殺されました。

②ヴァレンシュタイン

 アルブレヒト・ヴァレンシュタイン(1583~1634)は、ボヘミア(チェコ)出身の傭兵隊長です(トップ画像の人物)。17世紀のドイツでは、カトリック・プロテスタントの対立などが原因で三十年戦争が起きていました。資産家でもあったヴァレンシュタインは、神聖ローマ皇帝に仕えて傭兵部隊を編成します。
 戦功を重ねたヴァレンシュタインは強大な権力を得ましたが、その野心を恐れた皇帝によって暗殺されました。

③骨皮道賢

 応仁の乱において、東西の両軍は金で雇い入れた足軽部隊を活用しました。骨皮道賢は、応仁の乱で活躍したもっとも有名な足軽大将です。東軍の細川勝元によって金品で雇われ、300人ほどの配下を率いて西軍の後方攪乱を行いました。
 足軽が放火や略奪などを行ったことは、京都の荒廃に拍車をかけました。骨皮道賢自身は1468年に畠山義就勢に討ち取られました。

④山田長政

 17世紀初頭、天下が統一されて国内の戦いがほとんどなくなりました。そのため、幕府が鎖国政策をとる以前は、多くの日本人が東南アジアなどに渡り、傭兵となったとみられています。
 シャム(タイ)に渡った山田長政は、傭兵として頭角を現し、アユタヤの日本町の首領になりました。ソンタム王の信任を受けて宮廷内で出世しましたが、王位継承争いに関与するまでになったため、政敵に毒殺されました。

⑤ヤン・ジシュカ

 ここまでの人物紹介を読むと、傭兵という存在にあまりいい印象は持たないかもしれません。が、民族的な英雄になった傭兵隊長もいます。
 ボヘミア出身の傭兵として頭角を現したヤン・ジシュカ(1360~1424)は、1419年に勃発したフス戦争の英雄です。
 フス戦争とは、ボヘミアの宗教指導者フスが、異端として火計に処されたことに端を発する宗教戦争です。ボヘミアのフス派と、カトリックを奉じる神聖ローマ皇帝ジギスムントとの争いでした。
 フス派の義勇兵を率いたジシュカは、傭兵として培った巧みな戦術や、新兵器の銃の活用によって皇帝軍を苦戦させました。フス戦争はジシュカの病没後に鎮圧されましたが、ジシュカはチェコの民族的英雄として顕彰されています。


 一口に傭兵といっても、国や時代によって様々な背景があります。傭兵すべてが「放火や略奪を好む荒くれ者」となるわけではありません。
 野心や才覚でのし上がった男たちが、歴史を面白くしていることは確かです。


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