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モーツァルトの妻コンスタンツェは浪費家の悪妻だったのか(後編)

前回はこちら。

モーツァルトの家計を苦しめた意外な事情

 モーツァルトの晩年の窮状を説明する、説得力のある議論があります。一七八七年、ロシア帝国とオスマン帝国の間で戦争が勃発。ロシアと同盟を結んでいたオーストリアも、一七八八年二月にオスマン帝国と開戦し、戦争は一七九一年まで続きました。

 この戦争のために、帝国は二億二〇〇〇万フローリンもの支出を強いられたといいます。多額の戦費を調達するために市民には重税がかけられ、輸入制限によってウィーンは深刻な食糧不足に見舞われました。

 先述のように、モーツァルトの演奏会に客が集まらなかったのは、有力な顧客だった貴族たちが従軍や疎開をしてしまった影響があると思われます(西川尚生『モーツァルト』音楽之友社)。対外戦争によって物価が高騰し、収入のあてが部分的に減ったにも関わらず、モーツァルト一家は生活水準を下げなかったため、金に困るようになったのでしょう。

新しい法制度も不利に働いた?

 対オスマン戦争が始まる前の一七八七年、オーストリア皇帝ヨーゼフ二世は、高利貸の法定利率を廃止し、さらに債務者に特別な税金を課す法令を発布しました。この制度のもとで一度借金をすると、高い利子や税金の支払いにより、多重債務状態になりやすくなってしまいます。


 作品に対して報酬をもらうフリーの作曲家という仕事の性質上、あてにしていたタイミングでお金が入ってこないことはしばしばあったでしょう。晩年のモーツァルトは、依頼された作品を完成させられないことも多くなっていたので、なおさらであったはずです。こうした事情が重なって、モーツァルト一家は「仕事はあるのに借り入れをしないと成り立たない」状態に陥ったのではないでしょうか。


 一八世紀当時では、個人が借金をすることはローンを組むくらいの感覚で行われていました。モーツァルトの場合は名声もあり、貸し付ける側からすれば十分な信用があったでしょう(クリストフ・ヴォルフ著・礒山雅訳『モーツァルト 最後の四年』春秋社)。自分の音楽が後になって十分な収入を生むことを見越しての借り入れだったのでしょう。

モーツァルトの葬儀も粗末ではなかった

 モーツァルトの葬儀についても、ウィーンの中流市民にとって標準的なランクであったことが、ソロモンの研究で明らかになっています。「モーツァルトは貧困のうちに死んだ」との認識は、研究者の間では改められているのです。

コンスタンツェの経済感覚は極めて真っ当

 なお、二人の息子を抱えて未亡人となったコンスタンツェは、夫の死後まもなく皇帝に遺族年金の申請をし、交渉の末に夫の年収の三分の一の支給を受けました。さらに夫の作品の筆写譜を売却するなどして収入を得、夫の遺した借金を完済しています。

 経済感覚のない人であれば難しいことでしょう。コンスタンツェはモーツァルトの作品の保存にも力を尽くし、一八四二年に八〇歳で死去しました。自分の音楽で十分借金を返済できると見積もっていた生前のモーツァルトの思惑は、正しかったと言えるでしょう。コンスタンツェは亡夫の作品から富を生み出し、二人の息子に総額三万フローリンにものぼる財産を遺したからです。

(完)

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