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マーラーは死の恐怖に怯えながら「告別の曲」を書いたのか?《4》

前回はこちら。

妻アルマの浮気の影響はあったのか

 マーラー晩年の作品について、妻アルマとの関係に注目した論考も多くあります。よく知られているように、マーラーより一九歳も年下のアルマは、建築家のヴァルター・グロピウスと不倫し、マーラーは大きな衝撃を受けました。精神的な危機を迎えたマーラーは、精神分析学者フロイトの診察も受けています。


 アルマの浮気が発覚するのは、一九一〇年七月のことです。この時、マーラーは《交響曲第一〇番》の作曲に取り掛かったところでした。そのため、残された第一〇番の草稿には、アルマに対する愛や苦悩の言葉が多数書き込まれています。一方、《大地の歌》や《交響曲第九番》は完成していますので、アルマとの破局と直接の関連はありません。「アルマの不義が『告別三部作』の背景である」とするのも、厳密ではありません。


 むしろ、《交響曲第九番》が作曲された一九〇九年は、一九〇七年の不幸の傷も癒え始め、仕事面でも充実していた平穏な年でした。この曲を聴いた人は、誰しも「死に直面しての苦悩と、その先にある諦観」を見出すでしょう。音楽に描かれている「死」とは、自身や肉親の死といった生々しいものだったのでしょうか。むしろ、他の「世紀末ウィーン」の巨匠たちと同じく、観念的な象徴としての「死」をマーラーは描きたかったのではないでしょうか。

マーラーの「伝説」はなぜ広まったか

 円熟の極みにある作曲家が、死を連想させる大作に取り組み、まもなく本当に死んでしまった。この事実が、「わかりやすいストーリー」を求める人々によって脚色され、伝説となって広まっていったのでしょう。それは、飾り立てた回想記を書いた未亡人アルマだけの責任ではないはずです。


 一九一二年三月二五日、マーラーの後継者の一人アルノルト・シェーンベルクが、プラハにおいて追悼講演を行いました。そこで語られた《交響曲第九番》に関する言葉は、非常に多くの場所で引用されます。

 第九交響曲はひとつの限界であるように思われます。それを越えようとするものは、世を去るしかないのです。

 シェーンベルクの言葉は、師に対する尊敬に満ちた感動的なものですが、事実を客観的に述べたものではありません。確かに、マーラーは傑作の《交響曲第九番》を書き上げて世を去りましたが、次なる大作に意欲的に取り組んでいました。《第一〇番》を完成させられなかったのは感染症による急死のためであり、いわば偶然に過ぎません。


 マーラーの音楽を伝えようとする人々が、自らも意図しない形で感傷的な物語を作っていった。これが、マーラーにまつわる伝説が流布した理由であるというのが、本稿での結論です。

《了》

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