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「キリシタン神社」を知っていますか

 日本人は「八百万の神」を信じるとされ、外来宗教である仏教と日本古来の信仰が混じった「神仏習合」などがみられます。

 江戸時代の禁教令の時代には、潜伏キリシタン(隠れキリシタン)が観音菩薩の像を聖母マリア像に見立てて礼拝していた「マリア観音」という事例もあります。

 さらに、キリスト教の信仰にもとづいて建立された神社もあります。「キリシタン神社」は非常に珍しく、全国に3例しか現存していません。

枯松神社(長崎市)

 長崎県は、禁教令下でも多くの潜伏キリシタンが信仰を保っていました。明治時代にキリスト教が公認されると、キリスト教の伝道師「サン・ジワン神父」を祀る神社が建立されました。

 サン・ジワン神父が誰なのかは判然としません。江戸初期、迫害の中で伝道を続けていたが、病に倒れ枯松で亡くなったと伝えられます。1610年、有馬晴信が長崎港の外で沈めたポルトガル船マードレ・デ・デオス号に乗っていたジョアン・デ・アモリス神父ではないか、という説があります。

※トップの画像は長崎市公式観光サイトからお借りしています。

桑姫社(長崎市)

 桑姫社は、キリシタン大名として有名な大友宗麟の孫娘と伝えられる「桑姫」を祀る神社です。桑姫は洗礼名をマキセンジアといい、大友氏滅亡後に長崎に移り住んだといいます。

 彼女は桑を植え、地域の女性たちに養蚕の技術を広めたといいます。亡くなった後、目印としてその墓に桑が植えられました。それが「桑姫」と呼ばれる由縁であると伝えられます。同神社には、現在も桑姫の墓と伝えられる巨石が残っています。

おたいね明神(伊豆大島)

 伊豆大島にあるおたいね明神は、「おたあ・ジュリア」という女性を祀った神社とされています。

 彼女は、朝鮮出兵の際に小西行長の捕虜として、幼少期に日本に連れてこられたといいます。キリシタンであった行長の夫人の保護を受け、洗礼を受けました。小西家は関ヶ原の戦いで敗れ改易となりますが、おたあ・ジュリアは大奥に仕える女官となりました。

 しかし、1612年に江戸幕府が禁教令を出した際、信仰を捨てなかったため伊豆大島、さらに神津島に流罪となり、そこで生涯を終えたと伝えられます。なお、本土に戻ったという宣教師の記録もあり、後半生は謎に包まれています。

 三つの神社の由来がどれだけ史実を反映しているかはわかりません。しかし、キリシタン禁制にまつわる激動の歴史が、風変わりな「キリシタン神社」を生んだことは確かです。
 これらの神社では、今でもキリスト教や神道の影響を受けた祭りが行われています。

参考文献:
金美連「日本のキリシタン神社で行われる儀式」

https://www.ir.nihon-u.ac.jp/pdf/research/publication/02_41_09.pdf

 
 


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