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マーラーは死の恐怖に怯えながら「告別の曲」を書いたのか?《1》

 後期ロマン派の掉尾を飾り、現代音楽の先駆者になったとも言われる「巨人」がグスタフ・マーラー(一八六〇~一九一一)です。

マーラーの略歴・作風

 オーストリアの人ですが、生まれたのは帝国の辺境であるボヘミア(現チェコ)であり、しかもユダヤ人でした。「私には三重の意味で故郷がない。ドイツにおいてはオーストリア人として、オーストリアにおいてはボヘミア人として、この世においてはユダヤ人として」という言葉にあるように、彼は自分の出自に強烈な疎外感を覚えながら生涯を過ごしたと言われています。


 彼は指揮者としての才能があり、実力でウィーン宮廷歌劇場監督という、ヨーロッパ音楽界の頂点にまで上り詰めました。一方、指揮者としての活動の余暇に作曲された交響曲は、生前に評価されることは少なかったといいます。作品の多くが百人以上の大編成である上、演奏時間も長大で技術的にも難しいことが、真価をわかりにくくさせたようです。世界的なマーラー・ブームが訪れ、彼の作品が主要なオーケストラのレパートリーに加わるのには、一九六〇~七〇年代まで待たなければなりませんでした。

「運命の打撃」と晩年の作品群

 そのマーラーの作品として最も重要なのが、晩年に書かれた《大地の歌》、《交響曲第九番》、《交響曲第一〇番(未完)》の三部作です。よく知られた作曲の経緯は次のとおりです。


 一九〇七年は、指揮者として名声を得た後のマーラーにとって危機の年でした。まず、宮廷歌劇場内の反マーラー派の突き上げにより、宮廷歌劇場監督を辞任せざるを得なくなります。七月には、最愛の長女マリア・アンナが猩紅熱とジフテリアの合併症により、わずか五歳で世を去りました。そして同じ頃、マーラー自身も主治医から心臓疾患の告知を受けるのです。


 マーラーは、「交響曲第九番のジンクス」を信じていました。ベートーヴェン以来、偉大な作曲家は九曲以上の交響曲を作れないというのです。第八番までを完成させていたマーラーは、九番目の交響曲を書くと死ぬのではないかという考えにとりつかれました。そこで、続く声楽付きの交響曲は番号をつけず《大地の歌》としました。しかし、その次に完成させたのは純器楽の交響曲だったので、《交響曲第九番》とせざるを得ませんでした。結局、マーラーは《交響曲第一〇番》を未完のまま世を去ってしまい、ジンクスを補強する結果となってしまったというのです。

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