ショスタコーヴィチは、「交響曲第五番」で二枚舌を用いたのか《1》
ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(一九〇六~一九七五)のイメージといえば、「政治に翻弄された悲劇の芸術家」といったところでしょう。
恐怖政治の時代
一九二〇年代末から一九五三年まで、ソ連には独裁者スターリンが君臨し、恐怖政治が敷かれました。とりわけ悪名高いのが、一九三〇年代後半に猛威を振るった「大粛清」です。スターリンの敵対者・批判者と目された者は、残虐な拷問によって国家反逆罪やスパイ罪の容疑を認めさせられ、銃殺刑やシベリア流刑に処されました。大粛清の期間の犠牲者は六八万人と推定されていますが、その実態は未解明です。
舞台芸術家のメイエルホリド(一八七四~一九四〇)を筆頭に、スターリンによる粛清の犠牲者には芸術家・文化人も多く含まれました。ショスタコーヴィチもまた、当局からの批判という危機を幾度か迎えました。しかし、彼は度重なる粛清の危機を回避し、亡命を選ぶこともありませんでした。彼は国家から多数の栄誉を授けられ、ソ連最高の音楽家として生を全うしたのです。
「マクベス夫人」とプラウダ批判
ショスタコーヴィチの危機と克服については、次のような逸話が広く知られています。成立間もないソ連において、早熟な才能を発揮していたショスタコーヴィチは、国民的な音楽家として活躍。オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》は、過激な性暴力の描写も含む挑戦的な作品でした。
しかし一九三六年一月二八日、ソ連共産党中央委員会の機関紙「プラウダ」に、《マクベス夫人》を「音楽の代わりの支離滅裂」として酷評した論説が掲載されます。ソ連当局は、文化・芸術の統制のため、ショスタコーヴィチを槍玉に挙げて批判したのです。恐怖政治の吹き荒れるこの時期、ショスタコーヴィチは粛清の危険性に直面しました。この「プラウダ批判」により、彼は音楽院の教授職を解かれるなど仕事が激減。前衛的な大作、交響曲第4番も初演撤回を余儀なくされました。
復権を賭けた交響曲第5番
そこでショスタコーヴィチが選んだのは、国家の掲げる「理想的な芸術」に沿った音楽を作ることでした。一九三七年一一月二一日、レニングラードにおいて交響曲第五番の初演が行われます。第一楽章は重苦しく始まり、不気味なスケルツォの第二楽章が続きます。民衆の苦難に寄り添うような悲痛な第三楽章を経て、第四楽章は輝かしい勝利で締めくくられる。初演は大成功をおさめ、ショスタコーヴィチは政府から復権を認められたのです。
余談ですが、この曲は十月革命二十周年の記念式典に寄せて書かれたことから、日本では「革命」という副題が定着していました。これは作曲者が付けたものではなく、現在のCDや演奏会などでは副題なしの表記が主流になっています。
(続く)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?