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岩槻城~関東の要地となった沼地の城

 さいたま市岩槻区にある岩槻城。現在の城址公園はあまり広くありませんが、関東地方の要衝として歴史的に重要視されました。

岩槻城の歩み

 戦国時代の岩槻城は、北条氏に抵抗した太田資正の居城でした。資正は犬に訓練を施し、岩槻城と武蔵松山城の間の伝令として使ったという逸話が残ります。

 しかし、資正は息子に裏切られ追放の憂き目にあい、岩槻城は北条氏康の手に落ちました。
 豊臣秀吉の小田原攻めでは、北条氏房が籠城しますが、落城しています。

 江戸時代にも関東支配の重要拠点とされ、幕府の信頼厚い譜代大名が岩槻藩主となりました。

 近世の岩槻城の姿は、下図のようでした。広大な沼地を活用した城でしたが、現在は開発によってほとんど姿を消しています。

出典:さいたま市HP

https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/013/002/p078002.html

 現在、上図の「鍛冶曲輪」「新曲輪」の部分が、岩槻城址公園として整備されています。

岩槻城の今

 城の堅さをしのぶ遺構は少ないですが、東武岩槻駅から徒歩5分ほどのところに、土塁の一部が残っています。
 愛宕神社の建物は、土塁の上に建てられているとのことです。

 岩槻城址公園には、移築された岩槻城の城門が見学できます。本来の位置ではありませんが、貴重な現存建築です。

岩槻城城門(黒門)
岩槻城城門(裏門)

土の城の威容をしのぶ

 城址公園を散策すると、土づくりの城の威容をしのぶことができます。
 下の写真の中央は空堀、右側には土塁が見えます。平坦な地形ですが、土を削ることで守りを固めていたのです。

 新曲輪と鍛冶曲輪の間には空堀が張り巡らされ、まるで迷路のようです。

 堀底の道をさまよっていると、平坦な曲輪に出ます。ここが鍛冶曲輪です。周囲はしっかりと土塁で囲われています。

 今は市民の憩いの場である城址公園ですが、よく見れば土塁や空堀が残り、戦国時代の土の城の雰囲気をよく伝えています。

おまけ:ラーメンに麻婆豆腐をのせた岩槻のB級グルメ「豆腐ラーメン」。岩槻城に近い、「さいたま市民会館いわつき」の食堂で食べることができます。岩槻城を訪れる方はどうぞ。

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