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備中高松城~戦国の分岐点となった水攻め

 2023年最後の記事は、今年11月に訪問した備中高松城の紹介といたします。


備中高松城の戦い

 天正10(1582)年、羽柴秀吉は毛利方の備中高松城を包囲します。低湿地に築かれた城は容易に落ちませんでしたが、秀吉は堤防を築いて水攻めにしました。城主の清水宗治は降伏し、城兵の命と引き換えに切腹します。

 折しも、秀吉は京都で織田信長が討たれたという凶報を得ていました。秀吉は信長の死を秘匿して毛利方と和睦すると、すぐさま「中国大返し」を敢行し、明智光秀を滅ぼします。

 歴史の転換点となった備中高松城は、現在城址公園として整備されています。

低湿地に築かれた難攻不落の城

 備中高松駅から徒歩10分ほど。高松城は平地に築かれており、ちょっと見ただけでは守りが堅そうには思えません。

シーズンには見事な蓮の花がみられる

 現在は城の一部が公園となっており、広大な水堀が広がっています。かつてはこの一帯がぬかるんだ湿地でした。城を包囲した軍は、沼地に足を取られて自由に展開できず、高松城は難攻不落を誇ったのです。

 本丸跡をよく観察すると、周囲よりわずかに高い場所が城であったことが読み取れます。

 秀吉による水攻めの跡も城は残っており、関ヶ原の戦い後には旗本の花房職秀(もとひで)が城主となりました。本丸には陣屋も築かれていたといいます。

清水宗治の忠烈を偲ぶ

 備中高松城に殉じた城主の清水宗治。本丸には宗治の首塚があります。

 城址公園から徒歩すぐの所には、胴体を葬ったという胴塚も残されています。

秀吉の水攻めの痕跡

 秀吉は、高松城を水攻めにする際、堤防を築いて水をせき止め、城の周辺を水浸しにしました。その堤防の一部が、高松城の南東数百メートルのところに残っています。「蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤跡」です。

 今では土の下ですが、発掘調査によって築堤の構造が明らかになったそうです。水攻めの際に築かれた堤防はほとんどが破壊されましたが、蛙ヶ鼻築堤跡だけは奇跡的に残っていました。

秀吉の本陣があったという石井山

 今はのどかな風景が広がっていますが、歴史を変える戦いが繰り広げられた地です。過去に思いを馳せながら、散策を楽しむことができます。

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