幻に終わった「台湾の独立」
最近、急速に台湾問題が緊迫感を増しています。中国の武力による台湾併合は、今のところ現実的とは思えません。とはいえ、この地域の歴史は日本人にとっても必要な教養であるといえます。
台湾といえば「親日国」として親しみを覚える人が多いようですが、台湾の歴史を深く知っている日本人はどれだけいるでしょうか。台湾の近代史をめぐる一挿話を紹介します。
台湾の波乱の近代史
19世紀まで、台湾は清朝の領域にありました。しかし、日清戦争で日本が勝利したことにより、大日本帝国の最初の植民地となります。
第二次世界大戦で日本の支配を離れ、国共内戦で敗れた国民党が台湾を支配。現在まで政治的に分断された状態となっています。
この辺りはご存知の方も多いと思います。
台湾民主国の建国
実はこの間に、ごく短期間だけ台湾が「独立」を宣言していたことがあります。
1895年、日清戦争の講和条約である下関条約が締結され、遼東半島や台湾、澎湖諸島が日本領となりました。
ところが、日本の支配に反発した台湾人と清朝の官僚が中心となって、「台湾民主国」の建国を宣言したのです。1895年5月25日のことです。
総統には唐景崧(1841~1903)が就任し、藍色の地に虎を配した国旗も定められました。
台湾独立の成算
いかにも無謀な独立宣言にも見えますが、当時の情勢はどうだったのでしょうか。
下関条約の締結後、南下政策を進めるロシアはフランス、ドイツを誘って日本に圧力をかけ、遼東半島を清に返還させました。いわゆる三国干渉です。
台湾についても、日本の膨張を警戒する列強が独立を承認し、日本の上陸を阻止してくれるのではないかと考えたのです。
とりわけ、フランスは仏領インドシナを領有しており、中国南部への影響力が強かったため支援を期待されました。
わずか五か月で崩壊
しかし、列強は三国干渉以上に介入する意思はなく、台湾民主国は承認されませんでした。
5月29日、日本軍が台湾に上陸すると、民主国軍は敗退を重ねました。6月、総統の唐景崧は清国本土に逃亡し、民主国政府は事実上崩壊します。
その後も、劉永福(1837~1917)が台湾南部で抵抗を続けますが、同年10月19日に厦門に逃亡し、台湾民主国は完全に滅亡しました。台湾民主国が存続したのは、わずか五か月間でした。
台湾民主国とは何だったのか
歴史上大きな重要性を持たない台湾民主国ですが、その評価は難しいものがあります。
これを台湾民族主義の原点と高く評価する台湾独立論者もいます。一方、民主国の指導者は清朝の官僚が中心で、台湾民衆の意思は二の次だったという厳しい評価もあります。
台湾にかつて存在した「幻の独立国」は、いまだデリケートな問題を孕んでいるのです。
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