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死の床でも書きつづけた正岡子規がたどり着いた境地(後編)

前回はこちら。

 死病に侵されながら、子規は死の直前まで明瞭な意識を保ち、随筆を書き続けた。

「病気を楽しむ」

 第75回の連載(7月26日)では、強がるようにこう書いた。

「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白みもない」

 その言葉通り、庭に咲いた花や草木の描写、来客や新聞から得た社会の情報、書や絵画の鑑賞など、子規は旺盛な好奇心を発揮した。雑誌に載った句などの評価や、教育についての提言などには、歯に衣着せぬ痛快な物言いも見える。

子規がどうしても休まなかった理由

 新聞社が子規の病状を心配し、『病牀六尺』の休載日を設けたことがある。しかし、子規は懇願するような手紙を送った。

「僕ノ今日ノ生命ハ『病牀六尺』ニアルノデス。毎朝寐起〈ねおき〉ニハ死ヌル程苦シイノデス。其中〈そのなか〉デ新聞ヲアケテ病牀六尺ヲ見ルト僅〈わずか〉ニ蘇ルノデス。(中略)若〈も〉シ出来ルナラ少シデモ(半分デモ)載セテ戴〈いただ〉イタラ命ガ助カリマス」

 余命いくばくもない子規にとって、書き続けることだけが自分の活力になっていたのだろう。自分の生きた証を残すかのように、子規は書くことに壮絶な執着を見せた。

「悟りといふ事は」

「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事だと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合でも平気で生きて居る事であつた」(6月2日、第21回)

『病牀六尺』の連載は9月17日の第127回をもって途切れた。危篤に陥った子規は、9月19日に息を引き取った。34歳11ヵ月という、短い生涯だった。

 悲嘆や感傷を極力排した生の記録『病牀六尺』は、岩波文庫で入手することができる。同じく病床で書かれた『墨汁一滴』などと合わせ、手に取ってみてはいかがだろうか。

 また、東京・鶯谷駅近くには、子規が晩年を過ごした家「子規庵」が残されている。寝たきりになっても、弟子などが訪れて子規の無聊を慰めた。当時の面影を残す庭を眺めると、四季折々の草花を楽しむことができる。一度子規庵を訪れ、100年前に夭折した文学者に思いを馳せてみてもいいだろう。

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