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二十年の勘違い/うつ、ひきこもり、パニック障害、and more……


正月に鬱がらみの漫画を立て続けに二冊読みました。一冊はタイトルで謳っていましたが、もう一冊はそうではなく、鬱がらみのものをあえて選んだというわけではないです。その二冊とは『うつヌケ』(田中圭一)と『しんさいニート』(カトーコーキ)。ひらがな+カタカナのタイトルに時代感が出ますね。なぜかですます調です。つくおです。

以下、「鬱」が「うつ」だと区切りが分かりにくいので(自分で書いてて)漢字にしますが、それぞれの漫画の感想はさておき、その二冊を続けて読んでいたら自ずと自分の過去を振り返るような形になりましてね。

で、突然気がついたわけです。

――あれ? あのとき、おれ、鬱だったんじゃね?

私に鬱の経験があることは、ここでも何度か書いたことがあると思います。つぶやきでだったかもしれないので目立たなかったかもですが。

その時々に実際どう書いたかは覚えてませんが、「時期としては映画をやめたあと」「症状としては軽め」というこの二点は共通して押さえていたのではなかったでしょうか。とりあえず、自分の中でそのように認識しているので。あと一点補足するなら「医者にかかったわけではないが」というのもありますかね。いつも「軽めの鬱」という言い方をしてきましたが、それは診断が下りているわけではないという事情にもよるものです。

当時の症状を振り返ってみると、およそ次のような感じでした。

起き上がると猛烈にだるい(のでとにかく臥せっているしかない)/ちょっと近くのコンビニに行って帰ってくるだけで熱が38度以上になる(おかげでバイトをやめざるをえなくなる)/変な咳が続く/頭の中が(映画界に対する)恨みつらみの言葉で占められる/呂律が回らなくなって口端からよだれが垂れる

これが「軽い」に相当するか、そもそも鬱の症状なのかどうか分からないところもありますが(特に後半の二点)、二十代の私にとって体調の悪さは常態化したものでした。私の場合、「今日は身体が軽い」と感じられる日は年にほんの数日あればいい方というくらいのものだったんですね。

それまでもう何年にもわたって4~6カ月に一度くらいのペースで襲ってくる寝込んでしまうようなだるさと付き合ってきていたので、「いつもよりしんどめだが、生活に大きな変化(映画をやめた←それまで曲がりなりにもすべてを賭けていたもの)があったんだから、これくらいのダメージはありえる」というので納得できるようなものでした。

というので、病院に行ったわけでもなかったですし、自分で勝手に「軽めの鬱」と判断したわけです。自己診断のものを堂々と鬱だ鬱だ言うのもどうかと思いますし、あるいは、自分のことを病名で規定してもあまり面白いものではないということなどもあって、その経歴はときどきポケットから出してチラつかせる程度で済ませてはいたわけですが(凶器か何かのような言い方をする)。

で、その映画をやめた時期というのは2006年夏のこと、しかも結婚三日目という悲惨なタイミングだったわけですが、いずれにしろもう遥か昔のことです。ですが、今言いたい「あのとき、おれ、鬱だったのか」の「あのとき」は、これよりもさらに前に遡ることになります。

いったん話を変えまして。

ひきこもりのことを書きます。これについてもやはり一度か二度はここで触れたことがあるような気がしますが、私は学生時代の一時期、ひきこもりをしていたことがあったんですよ。よく言うあれです、あのひきこもり。

ちょっと記憶がおぼろげなところもありますが、私がひきこもりになったのは大学二年目のことでした。期間で言うと、春から秋にかけてのだいたい半年間。季節感はちょっと怪しい気もしますが、当時どこかで「最低でも半年間」とひきこもりを定義づけているのを見かけて、ぎりぎり入るなと思った記憶があるので、長さについてはそんなに間違っていないはずです。いずれにしろ、約二十年も前のことになります。

これまで自分のことを、「ひきこもり」の経験があって、「鬱」の経験もある、という風には認識はしていたのですが――。

それが冒頭に掲げた二冊の漫画を読んだところ、大学時代のひきこもりをしていたときの自分の状態と、それら漫画に出てくる状況や症状があまりにも似通っていてですね。で、それらを鬱として扱っているので、「あれ?」ということになりまして。

そういえば、ひきこもりになったはじめの頃にしんどくてベッドから起き上がることさえできなかったことがあったな、なんてことを思い出しました。もはや懐かしささえ帯びているような記憶ですが、本当にトイレに行くときぐらいしかベッドから出られなくて、そのトイレにも這っていくような感じだったりしたんです。

そうそう、あれはしんどかった。

また、これも時々こことかで「死にたい死にたいあぁ死にたい」と人に希死念慮をすりつけるみたいにしてつぶやくことがあったと思いますが、――これも私の人徳のなせる業か、そうつぶやいて心配されたことなど一度もなかったような気がしますが(あったとしても忘れてしまってますね。あぁひどい)、――とにかく、そういう死にたくて死にたくての希死念慮もその当時が一番強くて、もうそれと闘っているだけで一日が終わる、それだけでへとへとのへろへろになるというのもあったんですね。

そうそう、ひきこもった自室でカーテンレールの強度を確かめたりしてたんですよ。これじゃやっても失敗するなとぼんやり考えたり。日々そんな感じでした。暗いですね。希死念慮というのもわりと最近広まった言葉かと思いますが。

あと、底なし沼に引きずり込まれそうなあの感じとか。布団の中で文字通りのたうち回って、こちら側にしがみつこうとしたものです。

ダークサイドという言葉でカジュアル化もされてますが、あればっかりはマジで怖いのでアンコールは勘弁ですね。

そんな具合で、よく考えてみると、「軽めの鬱」とか言ってた頃より、その学生時代のひきこもりの頃の方がずっとしんどかったわけです。

というわけで――、

あれ、鬱だわ。
二十年経って気がついたわ。

と、正月早々、私はリアライズしたのです。

そんなバカなと自分でも思いますが、どうもそういうことになるようです。自分の経験に「ひきこもり」と「鬱」はあって、それらは別々のものとして振り分けていたんですが、あの学生時代の「ひきこもり」は、実は「鬱」が引き金になったものだったんですね(あるいはその逆に、「ひきこもり」が「鬱」を引き起こしたんですね)。

うわー、ですよ。

1998年とか99年辺りに世間で鬱病がどれくらい、どのように認知されていたか記憶にないですが(世紀の変わり目辺りのどこかで一気に市民権を獲得しましたよね、鬱って?それでだんだんひらがな表記されるようにもなって)、あのとき自分自身で「おれは鬱なのではないか?」と疑ったことはありませんでした。ただただひきこもりという状態になっているのだと思ってました。ひきこもりの一環としてこのように苦しんでいるのだと。もしかしたら、少しは疑ったりしたかもしれませんが、少なくとも記憶として定着するほどではありませんでした。

ひきこもりというのもそれだけで十分すぎるほど大きな挫折感が伴うので、己につらさを説明するためにはそれで事足りてしまったというのもあるかもしれません。また、私はひきこもりと前後してパニック障害にもなっているんですが(時系列が多少あやふや)、インパクトとしてはそちらの方が強くて、当時もそのあとも鬱を疑う視点が入り込む余地がなかったというのもあるかもしれません。

(ひきこもりの背景に鬱病やパニック障害や社交不安障害があることは珍しくないようですが、私にはもちろんその社交不安障害もあります。ありました。一昔前には対人恐怖症と言っていたやつです。パニック障害にしても、当時はまだ「何それ?」という感じが強かったはずだと思いますが、今は言葉の通りがよくなっていて大変助かります。で、それはともかく私の場合、結局コンプリートで罹患ですよね。全部未診断ではありますが)

しかし、そう捉え直してみると色々と腑に落ちることがあって。

映画をやめたあとになった状態は「(そのとき初めてなった)軽めの鬱」なんかではなく、「再発(リターン)」ということになるでしょうし、もしかしたらその「再発」の以前にも以後にも定期的に訪れていた寝込むようなだるさだって、「一種のささやかなリターン」と言えるのかもしれないのです。警戒レベル1~2くらいの。その言い方をすれば、再発が3~4の間くらいで、学生時代のものが5ですかね。

一種のささやかなリターンというのも(早くも確定事項のように言う)、何度か経験したことで来るタイミングがおよそ分かるようになりました。

二十代の半ば、私は脚本家という仕事をしていましたが、その仕事は締め切りに追われて書いて書いて書いて、しかし映画化の兆しは一向に見えず、いつしか企画流れになり、おまけにギャラも一切もらえずじまい、ということが毎回のように続きます(ギャラが出ないのでバイトも休めません)。

共同作業の映画製作の中では自分一人の力ではどうにもならないことも多く、とにかくものすごくすり減っていきます。で、そんなことが4~6カ月ほども積み重なったある朝、全身がずーんと重くなっていることに気がつくというわけですね。

こういう出口なしのお先真っ暗な状況と、そういう中で無理してがんばってしまうという性格は、鬱の引き金としてもぴたりと当てはまるようです。

こういうときの症状としては、全身のだるさ、微熱、変な咳が出る、というだいたいこの三つがセットになっていました。気持ち面での沈み込みに加えてその三セットということになるんでしょうが、脳みそが岩にでもなったかのように重たく感じるというのは、これまた常態化していたので、その時期に特にひどくなることがあったかどうか自分でもはっきりしないんですが。

まぁでも、仕事がその状態にあって気持ちが落ち込まないということもありえないでしょうけどね。依頼しときながら金は払わないくせに、仕事としてのプレッシャーだけはあるんだぜ、というそれは今やどうでもいいことですが。

だるい、微熱がある、変な咳が出ると言われても一見たいしたことないように思えるでしょうし、自分としてもそう思っていました。訴えたところで、これを一大事と掬い取ってくれる人はまずいないだろうと。でも、これが二週間から一ヶ月にわたって続くんですね。で、そういう時期が年に二三回やってくるというわけなんです。

二週間はまだいいとしても、例えば37度そこそこの微熱でもそれが一ヶ月続くとなれば、さすがにどこか異常があるんじゃないかと疑うのが人情というものでしょう。というわけで、最初の頃は私だって行きましたよ。どこへ。病院へ。

症状の持続期間が読めるようになったのも何度も経験したからであって、最初のうちは「これは何なんだ、このしんどさはいつまで続くんだ、ずっとこのままなのか」と、まったく先が見えなかったわけで。

しかし、診察を受けてもいつも「よく分かりませんね、ストレスかな」程度であしらわれて、突っ込んで調べようなんてしてくれた医者はいなかったですし、これしきのことで来られてもねぇみたいな顔をされたりもしました。

そういうことが重なって、医者に不信感を抱くようになるとともに、やがて病院には行かなくなりました。無理しないでいればやがて収まってくるものだということも次第に知るようになりましたし、症状が手に負えなくなるほど悪化するということもなかったですし(そういう時期には基本インプットに専念するわけですが、漫画にも同じような事例が紹介されてましたね)。

まぁしかし、結局のところ行く病院を間違えていたということになるんでしょう。普通の内科に行ってましたから。しかし、そこで心療内科を勧められるということもなかったですが、医者ってそれくらいの気も利かせられないものなんですかね。私の医者運が悪いんでしょうか。それとも、二十年前の意識といったらそんなもん、というところだったんでしょうか。

それで、そういったことが下敷きになりまして、映画をやめたことがきっかけによる警戒レベル3~4の「軽めの鬱」のときも医者に行かず、前回書いたように、役所にヘルプを求めても「働け」と言われるだけで、なんだかんだで回復までに三年ほどかかりましたね(この時期が映画から小説への移行期と称しているものになります。その三年間のことはあまり記憶にないですが、繰り返し言うように新婚の三年間でもあるわけですよ)。

私の方にも社会に適応する気がまったくなかったですし、知識もなかったからアレなんですが、本当にこのときに診断を受けて障害者手帳の申請くらいしてみるべきでしたね。

話は前後しますが、警戒レベル5の、学生時代の最初の鬱のときに戻りますね。先に書いたように、我がことながら時系列が少しあやふやなのですが、ひきこもりと前後して私はパニック障害にもなりました。それで当時、大学内にある施設でカウンセリングを受けていたんですね。

しかし、その校内カウンセラーも私のことを持て余しぎみだったというか、私があまりに喋らないのでカウンセリングするにもどうしたらいいか分からないと感じていたようです(喋らないって何よ?という部分については機会があればまた後日書きます)。

私としては自分にはどこかおかしい部分があると感じていて、それを、こう、精神医学だか心療内科的な見地から、保証するというか定義付けするというか、ずばり名前をつけてほしかったわけですが、カウンセラーがしてくれたのはむしろ逆でした。カウンセラーさんは「あなたは病気ではありません(から心配しないで)」というようなことを言ったんですね、最初か二度目かの面談のときに、早くも。

言葉通り励まそうとしてくれたのか、それとも何か含むところがあったのか、あるいはやっぱり「二十年前の意識といったらそんなもん」であるようなものだったのか不明ですが、私としては大いにがっかりしました。

一般にカウンセラーには診断を下す権限はないそうですが、そのカウンセラーさんにはそのカウンセラーさんの経験もあるでしょうから、判断を無下にはできません。それにしても、何らかの診断テストなどを実施してくれたわけでもなかったですし、私としては「じゃあ自分は何なんだ、この苦しみの正体は何なんだ」というしこりは、その後二三年にわたってカウンセリングを続けても残ったままでした。

とはいえ、そのカウンセラーさんに個人的に悪い印象はなくて、大学の一角にあったその部屋(学生相談室という名前だったかな)は、ほとんど初めて「自分は今、居るべき場所に居る」と感じられるような場所でした(学生時代の思い出といったら、筆頭に上がるのがそこでカウンセリングを受けたことです)。

そこに通っている間に一度だけ、大学所属と思われる精神科のエライ先生の診察を受けたことがありました。カウンセラーさんとしては、その必要があると判断したというより、先述のように私のことを持て余していたというのと、私がカウンセラーではなく医者に診てほしがっていると感じたことから勧めてくれたようでした。

診察場所も同じ大学の敷地内でしたし、私としては是非ということでお願いしたんですが、そこでも私は同じように自分の問題をうまく伝えることができませんでした。

その先生も多忙な方だとは聞いてましたが、なんだか面倒そうに相手をされて、形だけ軽めの薬を出されて、結局それきりでした。薬も効いてるのかどうかよく分からないような代物でしたし、もらった分をきちんと最後まで服用したかどうかもおぼろです。「なんか診察受けに行ったけど、あれは何だったんだろうな」という形でしか記憶には残ってません。

(当時の私は、カウンセリングとかそういったうものが自分から積極的に問題点を話していくものだとは思っておらず、行けば向こうが何とかしてくれるだろうと思っていた節もあります。きっと自分がうまく喋れない部分を相手が汲み取ってくれるのを期待していたところもあったのでしょう。何しろそういうことの専門家なのだからと)。

長くなりましたが、鬱の起点が変わったことにより、当時を振り返ってあれこれ組み直す必要が生じて、ということの一環で思いがけず長々と書いてしまいました。

そのはじめから自分が鬱だと分かっていたら、そしてそれが外からも認定されていたら、少しは生きやすくなったんでしょうかね。そうかもしれません。あるいは、鬱やその他症状を売りにして、なにがしかのマネーやら人気やらを稼ぐという行き方だってありえたかもしれませんし。完全に波に乗り遅れましたね。

例えば、これは直接にはパニック障害の影響になりますが、私は長らくまともに電車に乗ることもできませんでした。発症時にその場所で続けてパニックを起こしたため、電車や似たような閉じ込められる状況がすっかりダメになってしまったんですね。ひどいときは、そういう状況にはまり込むことを想像するだけでも冷や汗が出るような始末でした(パニック障害で電車に乗れなくなるというケースはよくあるかと思います。このまま乗ってると死ぬという恐怖に襲われるんですね)。

都内に移り住んでからは、仕事柄、映画を見るために新宿や渋谷へよく行きましたが、そのときも「自分には映画を見るという大きな目的があるんだ」と自分に言い聞かせ、「事故で止まったりすることなどありませんように」と祈りながらがんばって乗る感じでした。万が一のときはどうしたらいいのかも、常に頭の中でシミュレーションしていました。とはいえ、いざパニックになったらどうせ何もできないんですけど。少し遠出するときも、乗るのは絶対に各駅停車です。なぜなら、それはこまめにドアが開くから。息継ぎする感覚というか、そうすると少しは気持ちが楽になるわけです。

現在、私は仕事のために日常的に電車を利用していますが(それでも週三とか)、何の心配も持たずに電車に乗れるようになるまで実に二十年近くもかかりました。まさか「原稿書くのは電車の中が一番はかどるよね」と再び言えるようになるとは、自分でも思ってもみなかったことです。パニック障害になる前は、私にとって電車の中は物を書く時間だったのです(大学まで電車で一時間半かけて通っていたのでかなり集中して書けました)。

映画をやめたあとの「軽めの鬱=再発」から回復したあとは、体を壊しがちであることは変わりませんでしたが、比較的平穏に過ごした方かと思います。それでも一度、またしても鬱の入り口に立ってしまったと感じたことはあります。

ちょうど震災の年のことです。その前年の秋にとある地方文学賞をいただいて、初めての小説集の出版に向けて準備をしているときのことでした。そのときの経緯はこちらで詳しく書いてありますので、よろしかったらお読みください(文体が全然違いますが)。

*リンク先は、もともと後半部分を有料設定にしていましたが、なにぶん古い記事ですので、これを機に全編無料で読めるようにしました。当時購入していただいた皆様、ありがとうございました。なお、記事はヘッダ画像は削除した他、少し手を入れましたが、概ね以前のままです。

鬱の入り口うんぬんの一番の肝である担当との確執についてそれほど突っ込んで書いていませんが、一言で言ってしまえば仕事のトラブルが原因ということになります。

引用記事の最後辺りに、その頃、年がら年中怒り狂っていたことが書いてありますが、当時私はその担当の呆れ果てるような無能ぶりに振り回され、自分がとんでもない不条理世界に捕らわれてしまったように感じておりました。映画界にいたときにもあった、身に覚えのある感覚です(ちょっと違うかもしれませんが、世間にはブラックとかそういった形でもこうした苦難があるかと思いますが、創作の世界にはそれが給料なしであるんですね。しかも、相手の方は給料が出ているんです、何も仕事してなくても)。

それで、自分の被害妄想が刺激された部分もあるかもしれませんが、映画をやめたときに悩まされたのと同じような、頭の中が恨みつらみの言葉だけに支配されるような闇感情が渦巻く状態になりました。

振り返ってみるに、それに飲み込まれないように踏ん張って、むしろそれを怒りに転換して、前に進むエネルギーにして乗り切ったということになるんでしょうが、「この状態は危ない」と崖っぷちを歩くような感じだったことは間違いありません。

話が逸れましたが、ここで一気に現在に飛びます。

一気に時間を飛ばしておいて、しかも唐突に告白しますが、現在私は自分がASDなのではないかと疑ってます。

ASDというのは自閉症スペクトラム(Autism Spectrum Disorder) の略になります。

発達障害の一種ですね。

発達障害には、他にADHD(注意欠陥・多動性障害)とLD(学習障害)というものがあり、その特性によって三つに大別されています。とはいえ、きっちり区別されるというのではなく、中には複数の特性を併せ持つ場合もあるとか。

その中でASDというのは、社会的なコミュニケーションや人とのやりとりに障害がある、こだわりが強くて興味や活動が偏る、感覚に過敏があるといった特徴を持っています。原因としては、感情や認知といった部分に関与する脳機能の偏りと考えられているそうです。

少し前まで「自閉症」「高機能自閉症」「アスペルガー症候群」と小分けされていたものを総称してASD(自閉スペクトラム)と呼ぶようになったそうですが、そういうと少しはイメージが沸きやすいでしょうか。

発達障害は先天的なものであり、特にASD については現在のところ適切な治療薬というものもないようです。そういう特質の脳なのだという前提に立つしかない、そういうものなのだ、ということで、治癒できるといった類いのものでもないとか。なので、病院に行くといっても、己や周囲にその特質への理解を促し、不得手な場面での対処法を身に付けていったりするなどして、QOLをあげていくというのが治療の目標になるそうです。

近頃、「大人の発達障害」という言葉をよく耳にするようになりましたが、それは大人になって何らかの障害を発症したというわけではありません。もともと脳機能の特質により認知や言動に偏りがあったのが、社会に接することによって困難を生じる場面が目立つようになり、本人や周囲が何かおかしいんじゃないかと気づくようになった、ということなのです。つまり、障害自体ははじめからあるものなのだ、と。

ネットの情報を繋ぎ合わせているだけですが。

いや、私、自作の半自伝的な創作小説の中で、「主人公がアスペルガーだと根も葉もない噂を広められる」というエピソードを書いたことがあるんですが、あくまで「半」自伝的なので別に実話ではなかったんですが、まさかまさかの実話ベースみたいなことになりかねませんね、後付けで。

ところで、私がそう疑うに至った経緯については、これもまた機会があれば後日書くかもしれないということにして、「疑っている」という以上は、まだ診察を受けていない段階です。近いうちに予約とらなきゃなと思っているところです。今度こそ正しい病院の。

というわけで、今のところすべてが自己診断になりますが、私の場合、発達障害に過剰適応というものが加わって長らく見過ごされてきたということになりそうです。それゆえ人知れず生きづらさを抱えてきた、と。

過剰適応というのは、周囲の期待や社会常識に合わせて己を抑え込むことです。つまり無理をしている状態ですね。これには自覚的な場合も無自覚な場合もあるように思いますが、私自身はかなり無自覚にやっていました。で、先に体の方が限界を察知して悲鳴をあげたという展開になります。具体的に言うとIBS(過敏性腸症候群)という形でそれが出ました。

この症状も当時はまったく一般的ではありませんでしたが、いずれにしろ、これは最初の鬱からまた更に十年遡ったときの別の話になります。

別の話といってももちろん繋がっていて(だからこの稿が長くなってしまうのですが)、具体的な症状が出ていたにも関わらず、それから十年、私は何のケアもされないまま無視・放置され、症状は症状を呼び(自臭症、失声症、社交不安障害など)、鬱、ひきこもり、パニック障害へと悪化の一途を辿っていったんですね。壮観な既往歴です。

仮に発達障害、ひいてはASDという前提に立って考えれば、生育環境も劣悪なものでした。無視・放置と書きましたが、それをするのはつまり親であり、一部は教師ということになります。私はそのどちらにも恵まれませんでした。そして、もちろんというか何というか、父親は教員でした。

発達障害と毒親というのはセットで言われることが多々あるそうですが、私の親もそう言って差し支えのないものでした。

父親は私に問題があることを見ようとせず、「お前には我慢が足りない」と言い続けていました。言うというか、怒鳴り散らす、ですね。私に言わせれば「我慢しかしていない」ということになるのですが、こちらの言うことなど一切聞く耳を持ちません。

父親に言わせれば「みんなお前よりずっと悩んでいる」のであり、「お前は間違ってる」のであり、「お前はみんなに変人と思われてそれで終わりだ」だそうです(一字一句ママ)。

今、私は曲がりなりにも人の親ですが、自分の子供にこんな風に言うというのはまともな感覚には思えません。しかも、この父親は、私の問題は完全スルーしておいて、自分がちょっと不眠になったらいともたやすく医者と薬に頼るのだから、それはどういうギャグなんだと言いたくなります。

「みんなに変人と思われてそれで終わり」というのは、ある意味では正しいですけどね(みんなの方がそれで終わりにする、私を見限る、レッテルを貼ってそれ以上は考えないようにする、という意味で。だけど、私の方では私が続くんですよこれがまた)。

父親は終始いきり立った状態で、まず私を正座させると、あとはとにかく私が思い通りの謝罪をするまで(悔い改めを述べるまで)頭ごなしに怒鳴りつけるというやり方をしました。私はすっかり怯えてしまい、しまいには父親の足音を聞くだけで恐怖に身を固くするような有り様でした。「精神的虐待」という言葉は当時一般的ではありませんでしたが、まさにそれです。

(父親の聞きたがっている言葉を言うまで解放されないので、私はこれを「精神的レイプ」と呼んでいましたが。父親の聞きたがっていることというのは、つまり、「しっかり勉強していい子になります」とかそんなバカみたいな内容で、私の方ではつゆほどにも思っていないようなことですけども。しかし、この父親はそういう綺麗事が大好きなんですね。この人が不眠症になったのは、どうも職場の人間関係からくるストレスが原因のようでしたが、家の中で弱い立場である私を捌け口にしていた部分も多々あるのだと思います。子供心に「これは八つ当たりだ」とは感じていましたから。ひどい話です)

母親もまた、私の問題からくる苦痛の訴えをまともに取り合ったことがありませんが、後年になって「冗談で言ってるんだと思ってた」と平然と言うような人間です。父親から受けている扱いにしても、無視するというか、どこかいい気味だと思っているような節さえありました。端的に言ってしまうと、母親が気にするのはテストの点だけです。そして、私にとってテストの点ほど苦労せずに取れるものもなかったわけです。嫌みに言うわけではなく、歪んだ構造を指摘したいのですが。

(この点に関して長らく疑問に思っていたことがあるのですが、世の中には私なんかよりもデキのいい人なんていくらでもいて、しかしそういう人たちはなぜ学校という教育の在り方に疑問を持たずにやっていられるのだろうと不思議で仕方なかったのですが、つまるところ、彼らは適合にさして問題を感じていないということなのでしょう)

ネットなどで、よく「不登校だった」ということを肩書きとしていう人を見かけますが、私の場合は学校に行かないということは絶対に許されませんでした。毎朝のように行きたくないと言っていましたが、「引きずってでも連れていく」と怒鳴られ、いつも無理矢理家から追い出されていました(こういう現象に名前がほしいですが、あるんでしょうか)。

私の場合は、学校に行きたくないと本気で言い出してから(IBSの症状が出てからということになります )、大学を己の一存で退学するまで、実に十年以上かかっています。苦労して通って学校で得たものなど何もありませんし、心身ともにすり減っただけです。大学をやめたときは、ついに夢が叶ったという心境でした。

私の両親は、何というか、二人揃って「普通」以外のことが理解できないんですね。そして、何よりも「自分が」思い煩うのが嫌なんです。だから臭いものには蓋をするか、とにかく異質なものを排除して「自分が」安心しようとするか、それしかできないんです。

普通というのは地獄ですよ。その中だけで事足りている限りは天国なんでしょうが。そして、だから平然と人に押し付けられるんですね。こんなにいいものに適応しないなんてありえない、と。

そんな具合で、私の方でも「この人たちは一体なんなのだろう」と思ってましたが、私は親というものに対して親しみというものを感じたことがありません。というか、もっと率直に言って、「このままではこいつらに殺される」と思っていました。ひきこもりの時期など特に。

向こうは自分たちが何をしているのか、自分たちのやっていることがいかに子供を追い詰めているか、まったく理解していないので、ものすごくねじくれた話なのですが(むしろ、お前のためにやっている、こんなによくしてやっているのに、くらいに思っているんですね)。

今、父親とか母親とかいう言葉を書くだけでも不愉快です。

でもしかし、あまりそんな風に言われないかもしれませんが、毒親というのは、第三者から見たら滑稽の一言で済む、済まされてしまう、ようなものにも思われます。多分、その渦中にある人が苦しんでいれば苦しんでいるほど滑稽なものなんですよ。まったくもって、世界は醒めたギャグです(←これが私の現実感覚なんですけども)。

この辺りの詳しいことはまたの機会があれば書きたいと思いますが、およそ二年前に、私はその親と縁を切ることにしまして(詳しく言うと二十二、三歳のときに最初に家を出たときに次いで二度目の絶縁なんですが)、このことは私に感じたことがないくらいの解放感をもたらしました。大学をやめたとき以上のものです。

前回の記事で、このところ気持ちが安定していると書きましたが、そのきっかけはここにあります。私は、親と絶縁して、記憶にある限りでは初めて「まともに息ができる」感覚を味わいました。しかしその一方で、「まさか普通はこれくらいの息のしやすさが当たり前なのか」とほとんど驚愕とも言えるような気づきも得たんですね。で、これはきっとそうなんだろうなと思うわけです。

いやー、現実認識が違うはずだわ、というか、世の中は不公平なものですよ(それなのに私は、親からも教師からも友人知人からも、「お前は恵まれている」とずっと言われ続けてきたんですね。なんなんでしょうか、これは)。

さて、もし私が実際に何らかの形の発達障害なのだとしたら、昔からどこへ行っても変わりもの扱いされ、こだわりが強く、倫理観に偏りがあり、疲れやすく、感情表現が苦手で、友人がおらず、人といると頭の中には「早く一人になりたい」という言葉ばかり浮かぶというような、そのような自分の特質に根があるのだという理解が生まれます。これはまぁ一つの前進でしょう。

これまで鬱やひきこもりやパニック障害の経験について書いてきましたが、そうした症状はASDの二次障害ともされているそうなので、ますます期待が高まります。というか、それで「ASDではないですね、グレーゾーンですね」とか言われた日には、「結局損するだけの人生かよ」というやつです。

発達障害という言葉をよく耳にするようになったはじめの頃は、どんな症状があるかを聞くにつけ「そんな人は山ほどいるだろう、自分にだってそれくらいあるわ」くらいに思って軽く見ていたところもあったのですが、色々あってまともに向き合わざるをえなくなりました(子供にも発達障害の疑いがあるため、ということになります)。

上にも書いたように、私はそもそもからして社会に適応する気がなく、現実をまるきり無視して今までやって来たようなものですが、一方でその裏には「しようとしてもとても無理」という気持ちもあったのでしょう。言ってみれば、社会を意識する年頃になるずっと以前から不適合を感じていて、それがガンのように全身を蝕んでいたというようなものなので。

いわゆる普通の形で社会に出るなど確実に無理というのが分かりきっているがために、「そちらを考えても仕方ないので、他の行き方でどうにかするしかない」というのが、私のほとんど無意識の選択だったんだろうと思います。そして自分の回りに自分に合った世界を築き上げ、できるだけ快適に過ごすというのが、私がやって来たことになるのでしょう(皮肉にも、ASDの治療では結局そういうところを目指すことになるようですが)。

紆余曲折の二十年、というより三十年、あるいは四十年というべきか、ついに私にも波に乗るときが来たというところでしょうか。この年になってようやく、波に乗ることを恐れてはいけないという開き直りが訪れました。もはや我が生は、開き直りの後半戦に突入しているのです。

臆することなく出来合いの言葉に寄りかかって、ポエマーになるぞ!というところでしょうか。


いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。