江戸再考


江戸時代の災害で地震・津波・火山噴火は以下の通りです

想像してみてください

現在でも大変なことになるであろうと思われるような大災害が沢山あります

江戸時代を語る上で認識しておくといいと思います

あくまでも下にあるのは地震・津波・火山噴火だけです

そしてこれを見てみると

黒船来航が日本にとって最悪のタイミングであったことがわかります

何故なら、南海トラフ巨大地震の一つとされる安政東海地震と安政南海地震の直前だからです

そうなるとそれを踏まえて

薩長や欧米のその状況下での行動であることを考慮して

明治維新を再検するのも決して無駄ではないと思いますがどうでしょうか

もしかすると日本全国が大変な状況にある中、薩摩や長州は比較的無傷だったんでしょうか?

だとしたらとても酷い話じゃありませんかね

そうなると、司馬遼太郎さん含めてその後の歴史家の方々も極めて?

ならば、第二次世界大戦で大敗北するのもよくわかる

そして今でもその流れが続いている

違いますかね





1605年 慶長地震 (南海東南海連動地震 南海トラフ津波地震の典型) 

1611年 慶長16年会津地震

1611年 慶長16年三陸地震津波

1633年 寛永10年小田原地震

1640年 北海道駒ケ岳寛永大噴火 内浦湾に大津波

1649年 慶安2年武蔵下野地震

1662年 寛文近江若狭地震

1662年 日向灘地震

1677年 房総沖地震津波

1703年 元禄地震

1707年 宝永地震

1707年 富士山宝永噴火

1710年 因伯備地震

1716年 霧島山享保の噴火

1782年 天明相模(小田原)地震

1783年 浅間山大噴火

1792年 島原大変 肥後迷惑

1793年 三陸地震津波

1799年 加賀地震

1802年 享保佐渡地震

1804年 文化元年先潟地震

1810年 文化7年羽後地震 

1819年 近江美濃伊勢地方地震

1822年 有珠山文政噴火

1823年8月11日 シーボルト長崎到着
1824年 シーボルト鳴滝塾を開く
1828年 シーボルト事件

1828年 越後三条地震

1830年 文政京都地震

1833年 天宝4年越後出羽地震

1846年 北海道恵山弘化三年噴火

1847年 善光寺地震

1853年3月 嘉永六年小田原地震

1853年7月8日(嘉永六年6月3日) 黒船浦賀沖来航
1854年2月13日(嘉永七年1月16日) ペリー再び浦賀沖来航
1854年3月31日 日米和親条約

1854年7月 伊賀上野地震

1854年12月23日 安政東海地震(南海トラフ巨大地震の一つとされる)

1854年12月24日 安政南海地震(安政東海地震の32時間後に発生、これも南海トラフ巨大地震の一つとされる)

1855年11月 安政江戸地震

1856年8月5日 アメリカ総領事・ハリス下田に着任
1856年9月 長州藩 吉田松陰に松下村塾の再興を許可
1858年6月19日 日米修好通商条約
1859年6月4日 オールコック江戸の東禅寺を領事館とする
1859年7月6日 シーボルト 長崎に再度着任
1860年2月11日 長州藩 長崎でケーベル銃千挺購入
1860年3月3日 桜田門外の変 井伊直弼暗殺
1860年12月5日 アメリカ公使館通訳ヒュースケン薩摩藩士に殺害される
1861年5月28日 水戸浪士ら東禅寺のイギリス公使館襲撃
1861年8月21日 生麦事件 島津久光の家臣 武蔵生麦でイギリス人を斬る
1862年12月12日 高杉晋作らイギリス公使館放火
1863年1月 長崎にグラバー邸完成
1863年5月10日 長州藩 関門海峡外国艦船を砲撃
1863年7月2日 薩英戦争 
1864年8月2日 第一次長州征伐
1864年12月16日  高杉晋作ら挙兵
1865年4月19日 第二次長州征伐
1866年3月7日 薩長同盟成立
1866年6月16日 イギリス公使パークス薩摩藩を訪問
1866年7月20日 徳川家茂薨去 
1866年 12月5日 徳川慶喜将軍宣下
1867年11月9日 大政奉還








慶応2年(1866年)、第2次長州征伐の途上、家茂は大坂城で病に倒れた。この知らせを聞いた天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井登の2人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせた。江戸城からは、天璋院や和宮の侍医として留守を守っていた大膳亮弘玄院、多紀養春院(多紀安琢)、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らが大坂へ急派された。しかしその甲斐なく、同年7月20日に薨去した。享年21(満20歳没)。遺体はイギリスから8月に購入した長鯨丸にて江戸に運ばれた。9月2日に大坂を出航し、6日に江戸に到着している。
家茂は死に際して徳川宗家の後継者・次期将軍として田安亀之助(慶頼の子、後の宗家第16代当主・徳川家達)の指名を遺言としたが、それは実現されず、徳川慶喜が第15代将軍となった。


家茂が病に倒れた際にシーボルトの弟子たちは果たしてそこに関係していなかったのだろうか?





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