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【美術館やアートの楽しみ方】 #04 企画展よりも“常設展”を楽しもう (東京国立近代美術館より)

今回は「企画展よりも常設展を楽しめるようになろう」についてまとめてみました。
題材として『東京国立近代美術館』をとりあげました。
作品としては、岸田劉生『道路と土手と塀(切通之写生)』を紹介します。
ビギナー向けです。

1、東京国立近代美術館の紹介

「東京国立近代美術館」は、とても良い美術館だ。

東京の中心、皇居周辺のジョギングコースにある。
都心なんだけど、隠れ家的な立地で、まわりにレジャー施設のような回遊性が強くないのでそんなに人がたくさんおらず、比較的静かで趣のあるエリアにある。

1969年開館。
建物の名前のとおり、「日本の近代美術」を専門に扱っている。
西洋でいうと近代美術史の始まりは19世紀の「印象派(印象主義)」が始まりと言われる。日本にあてはめると、おおよそ明治・大正を中心に、昭和前半あたりまで。このあたりの時代に描かれた作品がコレクションされている。

収蔵品は、2016年時点で合計13,154点と、膨大なコレクションがある。

2、企画展ではなく、常設展に足を運ぼう

美術を鑑賞しようと私たちは美術館に足を運ぶが、美術館の美術展には大きくいうと『企画展(特別展)」と『常設展(所蔵作品展)』という2種類がある。

美術館の前にたくさんの人が並ぶような美術展は、基本的には『企画展(特別展)』のほうである。

美術館が中心となって“特集するテーマを設定”して、そのテーマに沿った絵画作品を、他の美術館や個人コレクターに声をかけて数ヶ月間だけ借りてきて展示するような『期間限定の展覧会』が企画展だ。

たとえば『琳派展』であれば、各地にある琳派の作品を一時期だけ借りて集めて展示する。

だいたいの美術館は、自分たちで購入したり寄贈してもらった芸術作品を美術館内に所蔵している。
近代美術館であれば“近代美術”を中心に所蔵しているし、西洋美術館であれば“西洋美術”を中心に所蔵をしている。浮世絵美術館であれば“浮世絵”をコレクションしているし、ゴッホ美術館であれば“ゴッホ作品”をコレクションしている。
そしてそれらの所蔵作品を「貸して欲しい」と他の美術館から声をかけられたら、期間限定でレンタルし、貸出料で収入を得ている

貸してない時には、倉庫にしまってあるともったいないので、“自分の美術館で展示”している。
つまりこれが『常設展(所蔵作品展)』である。

『常設展』のファンは意外と多い。
どこの美術館にもだいたい常設展はあり、華やかな特別企画展の脇のほうで、そっと静かに催されている。
『特別企画展』というのはハレの日のイベントで、その時に鑑賞し逃すと日本ではもう数十年は見られないかもしれないという美術展があるが、『常設展』は、いつもそこにいけば会える作品が展示されている。日常に密着するような美術にもなりえるのだ。

特に今回紹介した東京国立近代美術館は、『常設展(所蔵作品展)』にチカラをいれている美術館だ。

所蔵作品も多いため、定期的に所蔵作品の中から展示作品を見直し、その時々のテーマに合わせて展示がなされており、常設展だけれど繰り返し訪問しても飽きがこなくてよい。

「すごく混んでる特別企画展のルノワール展に長時間並んではいるより、ぼくは近美(国立近代美術館は略して“きんび”と呼ばれる)の常設展の静けさのほうが好きだなー」というセリフが言えるようになると、なかなかかっこいい(笑)

3、岸田劉生『道路と土手と塀』の紹介

この東京国立近代美術館の『常設展』の展示作品の花形に、岸田劉生の『道路と土手と塀(切通之写生)』がある。

とても有名な作品で、「日本の近代美術」を代表する作品でもある。

1915年の作品。
岸田劉生はこののちに描く『麗子像』が代表作となる画家だが、20代に若くして描いたこの風景画も重要な作品である。

岸田劉生は、抽象的な印象主義ではなく、写実主義的画風を好んだ。
国立近代美術館の作品紹介サイトから引用する。

岸田劉生はこの頃、北方ルネサンスの画家デューラーに魅了され、細密描写に向かいました。「ぢかに自然の質量そのものにぶつかって」いこうとした劉生は、盛り上がる土や、小さな石や草まで克明に描いています
真新しい塀の白さが、坂や土手の関東ローム層の赤土と、強いコントラストを見せています。

生々しいまでに生き生きとする赤土の力強さと、左手には真っ白な塀、右手には生い茂った緑
この作品を実際に鑑賞すると、そんなに大きな作品ではないのに、その筆の“力強さ”にまず目を奪われる。これが写実主義者の強さなのかもしれない。

4、その道の先には“希望があるか”

ただ、このブログでは毎回言うが、「その絵が芸術的に優れているのかどうか」を素人の私たちが判断するのは難しい。芸術がわかったような顔をして、「この赤土の力強さは」とか言うのは無理があるので、そこは避けよう、というのがこのブログの趣旨である。

それでもなお、この絵は美しい。
学生時代にクラブ活動をしていた人はその頃の記憶を思い出すとちょうどいいと思うが、
日差しがものすごく暑く、陽が強く照りつけている夏。汗が噴き出てつらいし、蝉の声はうるさいが、目の前の陽炎がたちそうな風景はとてつもなく美しくなかったか。

この美術作品は、“そういう大切な瞬間”を切り取っているように思える。
戻らない時間の中で、忘れられない瞬間。

そして特に重要なのは、坂の先に、美しい青空が広がっていることである。
空に注目を集める構図ではないが、そこに空があることで、鑑賞者たちに坂をのぼったその先の時間を感じさせる作品になっているように思える。

画家は、「その道の先に何を見せるか」を、意識的に、もしくは無意識的に取り組んでいる。

画家自身の描写時の精神状態は、絵から切り離せはしないのである。その絵が風景であれ、画家自身のうれしさや悲しさは絵に現れる。
“近代美術”とはそういうことであるともいえる。

鑑賞者はそれをなにより感じとるべきだ。
タッチや構図はわからなくてもいい。
美術の知識がなくても、芸術鑑賞を楽しむためには、その作品を見た時の“自分が感じた感情”をきちんと記録しておくことが大切だと思う。

絵のなかに“道”があったなら、こう思おう。
「この道の先には、希望を感じるか」(もしくは絶望を感じるか)

そこに芸術鑑賞の楽しみ方がつまっているはずである。

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