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2月25日 ベーシックインカムを導入しても怠け者は生まれない。

車を動かしたり気の利いた文章を書いたりコーディングしたり、AIにいろんな作業ができるようになった今、「仕事を奪われる」懸念がリアルになりつつあります。その先には新たな仕事が生まれるかもしれませんが、一時的にせよ失業する人が増えるかもしれません。そんな移行期にもすべての人に最低限の生活を保証すべく、政府から一定金額を無条件で支給する「ベーシックインカム」導入の議論が活発化しています。

OpenAIの共同創業者兼CEOのサム・アルトマン氏など、テック系ビリオネアもユニバーサルベーシックインカム(UBI)を提唱し、ロボットやソフトウェアが経済を支配する時代の失業問題を解決できると主張しています。

 ……ですって。
 記事には、実はベーシックインカムは最近急に出てきた議論ではなく、これまでに何度も議論され、しかも実験もされていた……という。
 ……知らなかった。
 1969年のアメリカで、あるいはコロナ禍のアメリカで、2017年にフィンランドで、2016年にケニアで……意外といろんなところでベーシックインカムの実験ってやっていたんだなぁ。
 「ベーシックインカムなんぞ導入すると、人々は怠けて働くなる」という批判はよく聞くが、どの地域での実験でも、労働の意欲に変化が起きることはなかった。ベーシックインカムは心理面に与える影響は大きく、人々は不安感から解消され、「働かねばならない」という焦燥感にかき立てられることがなくなったという。フィンランドの実験では就職率自体に変化が起きなかったから「失敗だった」と評価される一方、ケニアでは生活が安定したために起業する人が出てきたという。
 ベーシックインカムなんぞ導入すると、人々は怠惰になり、働かなくなる……実際にはそうはならなかった。フィンランドの実験で「就職率自体に変化がなかった」とあるが、ベーシックインカムを受けていたとしても、だからといって「働かなくなる」ということはなく、人々は普通に働いていた。ベーシックインカムが保証されるのは、多分日々の食事と医療……といったところだろう。その社会の中で自己実現を達成するためにはそれ以上にお金が必要で、そのためにはやっぱり大半の人々は働く、という選択肢を採るようだ。

 といっても、この手のネットニュース記事は、切り貼りして紹介されているので、恣意的な部分はきっとあるはずだから、細かいところまではそれぞれで調べる必要があるでしょう。

 それはさておきとして、今回は視点を逆にした場合のお話をしよう。
 ベーシックインカムを受ける人々の心理ではなく、“ベーシックインカムを批判する人々の心理”を見ていこう。
「ベーシックインカムなんて導入すると、みんな怠け者になって働かなくなる。社会が機能しなくなるし、それに働いている人が損をするようになる」
 こう言う人は多い。なぜそう考えてしまうのか?
 今月のブログで、マイケル・サンデル教授の『運も実力のうち』という本を紹介した。この本の中で、アメリカになぜ国民皆保険がなくなってしまったのか……という経緯が描かれている。
 病気とは無縁の健康的な人からすると、「病気をするような人は、病気をするような生活をしていたわけだから、《自己責任》だ」という。そんな人のために税金を払う、というのは健康的な人からすると理不尽な罰則だ。怠け者のために金を払う義理はない……という議論が90年代頃のアメリカで起きていた。この理由が全てではないけど、だいたいこういう理念の下に、米国ではクリントン政権時代に国民皆保険は廃止になった。
 「働いた方が損」……日本でもこんな話はよく出てくる。生活保護にまつわる話でよくされがちだが、生活保護を受けている人は、場合によっては働いている人よりもお金をもらえる場合がある。これでは働いている人間の方が損をしていることになる。
 マイケル・サンデル教授によると、富裕層は貧困層に対する差別を「正論だ」と思い込んでいる……と語る。「正論」であるから、「差別」は許される。いや、正論であるから差別に当たらない……とすら考えている。現代はあらゆる差別は視覚化されている。人種の問題やジェンダーの問題……こういう“視覚化された差別”に対しては富裕層や知的エリート達は敏感で、そういうものに対する理解を示すことで、自分たちがいかに進歩的であるかを世間に示そうとする。しかしこういう富裕層や知的エリート達は、一方で貧困層に対する差別は隠そうともしない。「あいつらは怠け者なんだから貧困に陥ったんだろ」と。こう主張することを「正論」だと信じ、これみよがしに拳を振り上げる。これは“道徳的にいかがなものか?”というのが『実力も運のうち』という本の中での提言であった。
 それに、「実力主義」を容認すればするほどに、富裕層は固定されていく……という問題も起きている。というのも、エリートになるためには莫大なお金が必要で、そのお金を支払えるのが富裕層だけ……という状態になっている。
 例えばイエール大学やスタンフォード大学では入試にSATというテストが採用されている。これは元々は「人間の潜在的な才能や能力を審査できる」ということで採用されていたのだが、一流大学入試にこれが採用されている、となると「SAT攻略法」が編み出され、その攻略法を知るための授業を受けるためには相応のお金を払う必要がある……という状態になった。結果、親が金持ちなだけの「地頭の悪い優等生」が一流大学に入ってくるようになり、全体としての学力は落ちる……という現状が起きている。
 こういう社会になると、中間層の底が抜けて、極端な富裕層と貧困層に二極化していくことになる。最初に「病気をするような人は病気をするような生活をしていたから自己責任だ」という主張を載せたが、貧困層に落ちると、そもそも健康的な生活を送るのが難しくなる。安物のジャンクフードばかりになり、栄養が偏り、病気がちになる。
 こういう背景がアメリカではすでにあるわけだが、それでもアメリカ人の大半は「実力主義」を信じ、這い上がれなかった人々に対し「自己責任だ」と言って拳を振り上げる。自分の生まれついての優位性をひけらかして拳を振り上げる行為や言動は、本当に「正論」か? とマイケル・サンデル教授は問う。
 日本でも、この手の差別はそこかしこにあるのだけど、差別であるという認識は薄い。生活保護を受けている人を見かけると、徹底的に攻撃をする。粗探しをする。「俺・私はこんなに一生懸命働いているのに、あいつらは働きもせずお金をもらっている」と。
 日本人は生活保護を受けている人間を蛇蝎のごとく憎む。「どうせパチンコに使ったんだろ」と批判する。その以前に生活が困窮するような事態に陥ったのは自己責任だ。まっとうな学歴を持って就職活動をやれば、働き口なんてどこにでもある。それすらやらなかったのだから、自己責任だろ。――こういう意見がネットの世界ではあまりにも多いから、生活に困窮しても生活保護は受けない……という人まで出てきてしまっている。貧困の末に死者が出た……という時になると、急に日本人は掌返しして寛容さを示す……そういう人々が多い。これは道徳的にどうなのか? ――とマイケル・サンデル教授は言うだろう。それは正論ではなく、ルサンチマンではないか。論理的な提言とはいわず、ただの「情緒」ではないか?

 労働問題が難しいのは、知っているはずなのに、なぜか“前提を見落とす”という現象を起こしがちなことである。
 今月は『コンテナ物語』という本を紹介したのだが、1950年代、コンテナの導入によって物流革命が起きた。かつてはモノを海外に運ぶことは輸送費があまりにも高かったために、あまり現実的ではなかったが、コンテナ革命はそれを解消してしまったので、もともと多くの工場は先進国の中にあったのだけど、人件費のより安いところを求めて後進国に移ってしまった。
 すると、もともとその工場で働いていた多くの人々はどうなるのか? 当然ながら「働ける座席」の数は減る。その座席を巡って骨肉の争いを始めるようになる。しかし全員が座席に着けるわけではない。当然、失業者は出る。マイケル・サンデル教授ふうに言うと、この時、運良く座席を得られた人々は、座席を得られなかった人々に対し、差別的に振る舞う……ということを正論だと思い込む。それは道徳的にどうなのか? という以前に、なぜそういう心理が働いたのか……を遡って考えると、そもそも「働く場」が少なくなったから……という前提を忘れてしまっている、ということから始まる。そして自分は座席を得ることができた、その幸運を忘れて、その優位性を誇示したいがために相手を叩いているのではないか? そういう心理の背景にあるのは実は「妬み」以上に、自分の立場に対する「不安」ではないのか?
 というここまでの話は、別に『コンテナ物語』という分厚い本を読むまでもなく、普通に学校の教科書に書いてあったはずの話。物流革命が起きたから、工場が先進国から後進国に移った。そんなことは小学生でも知っている。ところが労働問題の話をするとき、そこを見落とす。見落とすというか、意図的に無視して、「自己責任」というテーマのみで語ろうとする。そもそもなんで「仕事」という座席がこうも少なくなったのか? 構造的な問題を知っているのに見落としてしまう。今の先進国の構造だと、一定数働けない人々が出てきてしまうのは、当たり前の話だ……というのを忘れている。「ならばいかにしてそれを解決するのか?」という発想をしてもいいはずだろうに、誰もそう考えない。これが私たちが陥りがちな「認識のエアポケット」となっているところだ。

 さて、AI革命以降の社会になると、「働ける人々の座席」はより減っていく……と考えられる。その時、これまでのように、運良く座席を得られた人々は「正論だ」と差別を振りかざすのか? それともベーシックインカムをサブオプションとして考えてみるのか?
 現実はどうなっているかというと、多くの人々は世間の理不尽を粗探しし、それを指摘し、みんなで叩いて溜飲を下げる……ということをやっている。より低い立場にいる人々を見つけ出して、今の自分たちが陥っている鬱屈を晴らそう……確かに仕事という座席は得られたけれども、給料は安いし、尊厳があるような気がしない。その鬱屈を晴らすために、攻撃する相手を探す……そうやっている人々はネットでは多い。こういう人々は、なぜ自分たちがそういう心理に陥っているのか、もっと大きな視点で考える力を失っている。そもそも社会全体が狂っているから、鬱屈を抱くようになった……という視点を忘れている。

 私の考えだけど……これからの社会、つまりAI革命以降、働かない人々がそこら中にいたって問題ないのではないか……と考えている。なぜなら、それで社会が機能不全に陥らないのなら、なにひとつ問題ない……ということだからだ。
(現状の社会は未熟であるから、機能不全をあちこちで起こしてしまっている。つまり「人手不足問題」。だがそういう問題は少しずつ解消されていくだろう)
 そういう社会が来たときに、働かない人々を見て目くじらを立てる……そこまでくると、その人間の「狭量」の問題だ。自ら器の小ささを晒すのか?

 これからの時代、本当に才能と能力を持った人間しか働けない社会が来るかも知れない(といっても数十年先だろうけど)。ごく普通の能力しか持ち得ない人々は労働の社会から振り落とされていく。
 才能と能力のある人々……というのはほっといても勝手に何かやりはじめる。例えばApple創業者であるジョブズは、いつも何かしらの焦燥感にかき立てられて商品を発表していた。こういう人々は「生活のために仕方なく働いていた」ではなく、働きたくて働きたくてしょうがない人々だ。そしてこいう人々が作った物が、ヒット商品になり、文化を作っていく。
 ならばこういう人たちをいかに支援していくか……が重要になる。『成功者にぶら下がって生存する』という考え方だ。働ける人々こそ奴隷にしてしまえばよい。この発想は別に突飛なものではなく、よくよく考えればいま現在もやっていることだ。より優れた才能を持った人、稼げる才能を持っているごく数人に対し、数百人がぶら下がっている……というのが私たちの社会の“真の姿”だ。AI以後社会はそれが今よりもっとわかりやすい形になっていくだろう、と私は考えている。

 じゃあ働かない人々はまったくの無駄か? というとそんなことはなく、こういう人々が何かあったときの“待機要員”となる。何かあったとき、こういう人々がもっとも頼りになる。例えば大規模災害が起きたとき、一番活躍するのがこの待機要員達だ。
 「3・4・3(さしみ)の法則」というものがあって、組織の中でも使える人々、というのは全体の3割。4割はまあまあ。残りの3割は使えない。じゃあ効率化を図って、使えない3割のクビを切ればいいのか……というとそういうわけにはいかず、残った人々で「3・4・3」の割合になる。どうあがいても、組織は「3・4・3」の人口構造になるものだ、という。だったらこの「使えない3割」は手を付けない方が良い、ということになる。
(もう一つ、大事なことを注釈として足しておくと、組織の中でイノベーション的なアイデアを生み出すのは、実は「使えない3割」のほう。優秀な3割は優秀だから品質の良いものを作り出せるが、新規性のある何かを生み出すことはない。イノベーションの話となると、優秀、優秀ではない、の関係性は逆転する)
 それに、実はこういう人々が文化の担い手になる。Appleのジョブズは天才だが、しかし“大多数の消費者”がいなければ、文化は根付かない。モノはただそこにあるだけではダメで、誰かが手に取り、「これはいいぞ!」と語らねばならない。そういう人々というのが、普段は「使えない3割」と呼ばれている人々だ。実は(まあまあの4割と、使えない3割を足した)大多数の消費者たちが、社会を変える末端の重要人物となる。有能な3割だけでは世の中変わらんのだ。
 AI以降社会は、この「待機要員」「使えない3割」の人口比がやや増える。普段は使えないけれど、実は社会全体としてすごく重要。現代はいかにこういう待機要員を減らすか……ということに重点を置いている。なぜならそれは、社会そのものが疲弊し、どうにかこうにかでやっと機能している……という状態だからだ。社会そのものに欠陥を抱えている……というのが私たちが直面している問題だ。その状態が是正された後であれば、「使えない待機要員」を社会全体の中で置いていても問題はないだろう。その問題のない人々をルサンチマンという感情で攻撃する……あとはこういう道徳問題をいかに解決するかだ。

 というここまでの話はベーシックインカム本体とは別の話。かなり脇に逸れる。
 もしもの将来として、AI革命以降、現代の産業革命以後社会のように、全員がシャカリキ働かないとどうにもならないという状態が是正されるのなら、別にベーシックインカムは採り入れても良いだろう。むしろ、ベーシックインカムがあることが、AI革命以降社会にとって必要なものとなり得る。
 それに、ベーシックインカムによって得られるのは「お金」である以上に「安心感」だという。この安心感が喪われ、焦燥感にかきたてられた結果、なにかが壊れる……ここから「無敵の人」は生まれる。もしもこういう「無敵の人」が生まれる可能性が減るのであれば、有用な制度だといえる。

 最後に、「働くことの意義」について書いておこう。
 働くことは社会を機能させるために必要なこと……それ以外の、個人的・パーソナルな視点での意味を掘り下げると、その個人がいかに社会と結びついていくのか……という問いに結びついてくる。
 働くことはより大きな社会、地域と一体となるための手段である。働くことは賃金を得て生活を安定させると同時に、より大きな社会と結びついているという安心感を得ることができる。
 逆に言うと、働けない状態は、この一体感から排除される、ということになる。自分は孤独に陥っている……その実態を突きつけられる不安感。ここから精神的な病にかかりやすい。
 働かない状態になると、どんな心理状況になるか……あまり深く考える機会はないが、実際はこういうことである。どうしようもない「孤独」と、それがもたらす「鬱屈」と戦わねばならなくなる。その鬱屈にほとんどの人は耐えきれず、精神的に病んでいく。さらにこういう心理を理解できない人々、つまり運良く「働く場」という座席を得た人たちは、失業した人々を「正論だ」と思い込んで拳を振り上げる――この状況がより孤独に陥った人々の鬱屈を増大させていく。「無敵の人」を作り出している犯人は、実は正論の拳を振り上げる人々だともいえる。

 ネットで時々こんな話を聞いたことはないだろうか?
 それなりの貯金を作り、若くして引退し、念願のニート生活を手に入れた……(今の時代ではなかったら、普通に「引退生活」という)。が、半年もしないうちにニート生活に飽きて、やることがなくなり、結局働きに出てしまった……という。
 ニートになっても、日々そんなにやることがあるわけではない。私のように漫画や小説を書いている……という人ならば問題ない。しかし“ただの消費者でしかない”という程度の才能しか持ち得なかった人々がニートになる、まず直面するのはどうにもならない「暇」。次に「孤独」。誰も訪ねてこないし、話しかけても来ない。この孤独感に耐えられる人は少ない。現代はアニメとゲームが充実していて、サブスクリプションに映画もAVもある。しかしこれだけの娯楽があったとしても、すぐに飽きてしまう。なにかしらの目標を持ち得ない凡人は、こういう「ただ娯楽があるだけ」という生活に耐えることができない。
 それで、再就職の口がある……という人ならば問題ない。こういう時、働く場所すら与えられなかった人。こういう人の中から、高確率で「無敵の人」は出現する。働くということは、その人間に社会との一体感を与える。そういう意味で、働くことに意義はあるといえる。

 人は社会と接点を持って生きていかねばならない。私の場合は、こういう文章を書いて発表すること自体が、人々とのつながりを持つ手段となっている。しかしこういうものも出せない人は、孤独に直面することになる。その孤独にほとんどの人は耐えられない。耐えられるようにできていない。
 こういう心理をベーシックインカムが救うか……というと救わない。日々の生存が保証されていたとしても、「孤独」の問題が解消されるわけではない。この問題はベーシックインカムを飛び越えたところにある。まだ現代人のほとんどは、そこまで目を向けることはできていない。
 私は、結局は昔ながらの「血縁」や「村」といった共同体が人間心理を救う……と考えている。もしも昔ながらの血縁や村が受け入れられないのなら、仲の良い10人くらいで小規模のコミュニティを作る、という方法でもいいだろう。
 AI革命以降は、みんながゴーグルをかぶってアバター同士でやりとりしている……という未来を、私はあまりイメージできていない。むしろ逆で、いろんなところが先祖返りしていく。最終的には、やっぱり人と地域との結びつきが一番大事じゃないか、ということにみんな戻っていくのではないか……と考えている。


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