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映画感想 シャザム!

 懐かしい気持ちになるクリスマス映画

 『シャザム!』の歴史は実は結構長く、奥深い。
 シャザムはもともとは「キャプテン・マーベル」という名前で、1940年2月に発売された『Whiz Comics #2』の中で初登場した。当時の新興・フォーセット・コミック社の作品である。その時の内容は、12歳の少年が「シャザム!」と叫ぶと逞しいキャプテン・マーベルに変身し、戦うというものだった。1940年代を通してフォーセット・コミックの中でも高い人気を誇る漫画シリーズであった。

Whiz Comics #2  1940年2月

 ところが1941年、ディテクティブ・コミックス(後のDCコミック)は「キャプテン・マーベルはスーパーマンの盗作である」……と主張し、訴訟を起こす。この裁判は7年間続き、1948年裁判所は「キャプテン・マーベルはスーパーマンの著作権を侵害している」と判断した。一方で裁判所は、DCコミックがスーパーマンの著作権管理を怠っている……とも指摘した。
 フォーセット・コミックはこの判決を不服とし、また前回の裁判で「DCコミックがスーパーマンの権利を放棄している」と見られる判決が出たことで有利に働くと考え、再審請求した。その結果、1952年にキャプテン・マーベルは著作権侵害に当たらないという判決が下った。
 ところがその頃にはキャプテン・マーベルの人気は完全に落ち込み、フォーセットは1953年秋にコミック部門を閉鎖した。

 その後、1967年、マーベル・コミック社は「キャプテン・マーベル」の商標を獲得し、この名前を使ったキャラクターをコミックに登場させる。
 『キャプテン・マーベル』はご存じの通り、2019年に映画化。世の中的にも「キャプテン・マーベルといえばマーベル・コミックのキャラクター」として認知される状態になった。

マーベルコミックの『キャプテン・マーベル』1968年

 1973年、DCコミックとフォーセットは和解の一環として、かつてのキャラクターをDCコミックのキャラクターとして再登場させることとなった。しかし「キャプテン・マーベル」の名称はすでにマーベル・コミックが商標登録をしてしまったので、作中でも変身時の言葉であった「シャザム」をキャラクター名とすることに。

 2011年、DCコミックが全ラインナップをリニューアルした「New52」を発表。この時にメアリー、フレディ、ユージーン、ペドロ、ダーラといったファミリーが加わった。2012年11月に発売された『Justice League』が本作の原作となっている。主人公の名前が「シャザム」と正式に決まったのは、ここからだった。

2011年にリメイクされた『シャザム』。この時に現在のメンバーが登場した。

 キャプテン・マーベルが初めて映画になったのは、なんと大戦前の1941年。『キャプテン・マーベルの冒険』というタイトルで、これまた驚きの12部構成の連続映画として制作された。本当に当時、人気だったのだ。
 次の映像化はドラマシリーズで、1974年~1976年まで放送。この時のタイトルは『シャザム!』。
 1981年~1982年にはアニメシリーズで『シャザム』が放送。その後も『ジャスティス・リーグ』など様々なアニメにゲストキャラクターとして登場し続ける人気キャラクターであった。
 ようやく本作の『シャザム!』の再映画化企画が立ち上がったのは、2008年。しかしこの時のプロジェクトはなかなか進行せず。ドウェイン・ジョンソンの参加もこの頃で、この時にシャザムの悪役ブラックアダムに決定していた。
 そうしている間に、DCコミックは先ほど書いたラインナップのリニューアルである「New52」を発表。この時点で『シャザム!』の根底となる設定がまるごと変わる……という事態に直面する。映画のほうも仕切り直しである。
 2017年、ようやく『シャザム!』の映画制作が進展し、脚本が完成し、サンドバーグ監督に決定。同時進行でドウェイン・ジョンソン主演の『ブラックアダム』も別映画として進行。2018年に映画撮影が始まり、2019年にようやく劇場公開。ここまでが本作が劇場映画になるまでの長い物語である。
 制作費1億ドルに対し、世界興行収入は3億6500万ドル。評価は非常に高く、映画批評集積サイトRotten tomatoには418件のレビューがあり、肯定評価91%。一般レビューも82%と高評価。ほかのレビューを見ても概ね高評価を獲得している。2019年ナショナル・フィルム・アンド・テレビジョン・アワードで最優秀コメディ映画賞受賞。DCコミック映画は低評価が多い中、抜群の人気を誇る作品である。

 それでは前半のストーリーを見ていきましょう。


 1974年。ニューヨーク州北部。
 クリスマスで雪が降っていた。森の中を突っ切る道路を、一台の車が走る。車の中にいたのは、幼いサデウスと、その兄のシド、それから父親だった。サデウスは占い玉玩具で遊んでいた。すると占い玉に奇妙な文字が浮かび上がる。
 壊れた……。サデウスが顔を上げると、父と兄の姿がない。いつの間にか違う場所にいた。
 そこはどこかの洞窟の中のようだ。杖を持った魔術師がサデウスを待ち構えていた。
「わしは魔術師評議会の最後の一人。7つの大罪から王国を守ってきた。だが時は過ぎ、私は衰えた。それゆえ、我が魔法を引き継ぐ勇者を探している」
 勇者の証を示すには、「心の清らかさ」と「魂の善良さ」を示さなければならない。ところがそこに、ささやき声がする。
「あいつは嘘つきだ……こいつの言いなりになるな……我らがお前に力を与えよう……」
 サデウスはその声に導かれて、光り輝くオーブを手にしようとするが、
「もっとも心の清らかな者だけがあの誘惑に耐えられる。だがお前には、一生無理なようだ」
 と魔術師。今のささやき声は悪魔達のもので、サデウスが手にしようとしたのは悪魔の力だった。
 サデウスはもといた車の中に送り返されてしまう。突然のことでパニックに陥るサデウス。父がそれを窘めようとするが、そこで事故にあってしまう。

 孤児のビリーは、ずっと母親を探していた。その日も「レイチェル・バットソン」という人の家の前にいた。
「僕はビリー。僕、あなたの子供です」
 ビリーは呼び鈴を鳴らし、そう訴えかける。しかし出てきたのは黒人のおばさんだった。
「本気で言ってる?」
 また違った。
 ビリーはずっとレイチェル・バットソンという女性を探していた。今ので73人目。
 あれは3歳の頃……ビリーはカーニバルの中にいた。母親と一緒に雑踏の中を歩いていたが、ふと母親とはぐれてしまう。「お母さん……お母さん……どこ?」――母親を探して歩くが、見つからない。
 ビリーは警察に保護され、母親も捜索されたが見つからなかった。それからビリーは孤児として里親に引き取られるが……本当のお母さん、レイチェル・バットソンに会いたい。その想いを抱いて、探し続けていた。
 そんなビリーのもとに、ビクター&ローザ夫妻がやってくる。新しい里親だ。ビリーは新しい家に引き取られるが、気持ちは乗らない。だって……本当の母親はどこかにいるはずだから……。
 ビクター&ローザー夫妻の家にはたくさんの里子たちがいた。ゲーマーのユージーン、大学受験中のメアリー、筋トレ好きだけど筋肉が付かず太ってばかりのペドロ、お喋りな幼女のダーラ、それからビリーと相部屋になるフレディだった。
 今度の里親も長く続かないだろう……そう思いながら、ビリーは新しい生活を始める。
 里子達と一緒に学校へ行くと、唐突に学校の不良が車で突撃してきた。フレディが車にぶつけられ、吹っ飛ぶ。不良達は「ぶつかってきたな! 謝れ! 修理代払え!」とつかみかかってくる。
 ビリーはとっさに不良達を殴りつけ、逃げ出す。不良達が追いかけてくる。ビリーはそのまま地下鉄に逃げ込むが、そこで奇妙な感覚に襲われる。電光掲示板に奇妙なメッセージが浮かび、周囲の人たちが消えて、いつのまにかまるで違う場所、永遠の岩(ロック・オブ・エタニティー)に転送されていた。
 そこで魔術師と会う。
「ビリー・バットソン。残された希望はお前ただ一人。さあ私の杖に手を添え、我が名を呼べ。さすれば我が力が乗り移るだろう」
 ビリーは言われるまま魔術師の杖を手に取り、「シャザム!」と言う。すると自分の姿が突然大人の体になっていた。


 ここまでで35分。主人公ビリーが能力を授かるまで35分……ちょっと時間がかかるのが気になるところだけど。

 細かいところを見ていきましょう。

 おい、画面左下! なんで『アナベル』の呪い人形がいるんだ!
 監督のディッド・F・サンドバーグは『アナベル 死霊人形の誕生』の監督で、メアリー役のグレース・キャロライン・カリーは『アナベル』に出演し、ブレイク。関係者に縁があるので、『アナベル』の死霊人形がこっそりカメオ出演している。

 右の女性がメアリー。原作ではビリーの双子の姉という設定だった。映画版では、里親の家庭で初めて会う……という関係。大学入学前の女性、という設定になっている。

 こちらが主人公ビリー。14歳の設定。赤い服を着ている。

 もともとは母親の服の色だった。母親のカラーが息子に移り、そのままシャザムのメインカラーとなっている。母親に会いたい……という気持ちが乗った色……ということにしておこう。

 日本語吹き替えを聞くと、ビリー役が緒方恵美で、里親であるローザ役が三石琴乃。フレディ役が阪口大助で、魔術師シャザムが杉田智和で……なんかアニメでお馴染みの声ばかりで、なんとなく繋がりのある人ばかりだな……。日本語版制作スタッフを見ると、監修に映画監督の福田雄一が。実写版の映画『銀魂』の監督だ。あー、それでか……。

 ここが謎の場所、「永遠の岩」ロック・オブ・エタニティー。待ち受けている魔術師は、胸にダサい雷のサインをぶら下げている。
 『ブラックアダム』の舞台がメソポタミア文明のどこか……ということになっていたから、それに近いところでしょう。肌が褐色なのも、中東の人であるから。

 魔術師はかつて邪悪な精神の持ち主に力を与えてしまった……という後悔を語る。この場面に出てくる「邪悪な何者か」はブラックアダムのこと。シルエットはドウェイン・ジョンソンをベースに作られている。でも、ブラックアダムって映画を見るとそんなに悪いやつには思えないんだがな……。

 ここが問題だと感じる場面。なぜ魔術師はビリーに力を委ねようとしたのか?
 実はこの魔術師、何人もの人をこの場所に召喚し、その人が「清らかな魂を持つ者か」を試していた。サデウスがこの件について調査していたらしいが、サデウスが特定した人だけでも56人。魔術師は結構な人数で召喚しては「やっぱり駄目だった」と送り返していた(魔術師は古代王国崩壊からずっと色んな人を召喚していたかも知れないので、その人数は数十人ではないだろう)。
 そこまで慎重にやってきたのに、どうしてこの場面でビリーに能力を委ねてしまったのか……その理由は明確に示されていない。
 この直前に、サデウスがこの宮殿内に幽閉されていた悪魔を解放した。すると悪魔のささやきがなくなった。それまでの何十人かは、悪魔のささやきに騙されて、間違えた選択をしていた。それがなくなったから……なのだろうか? もしそうなら、この魔術師も悪魔の妨害に遭って勇者が見つけられなかった……ということになるが。召喚される直前、ビリーがフレディを救おうとした……という理由で「清らかな魂の持ち主」と認定されたのだろうか。そういう人、これまでもいくらでもいそうな気がするけど……。
 シャザムの能力が授けられるここまでが前半35分だけど、微妙に時間がかかる割にはこの理由が示されないのはどうなんだろうか。

 老人に言われるままに「シャザム」というと、いきなりオッサンに!? なにこれ? 体がでかくなった! 騙された!
 演じるのはザッカリー・リーヴァイ。ディズニー映画『塔の上のラプンツェル』のフリン・ライダー役、『マイティ・ソー』シリーズでファンドラル役など。キャリアは長いのだが、日本でも知られている映画があまりない俳優だ。彼のヘタレ演技が控えめに言って最高だ。
 それにしても「シャザム」と言ったら、全員がドウェイン・ジョンソンになるわけじゃなかったんだな……。でもこんなダサいオッサンになるくらいなら、格好いいドウェイン・ジョンソンになりたい。

 ここからのヘタレ・ヒーローぶりが最高に楽しい。史上最も「ダサい」アメコミ・ヒーローだ。
 ここからの物語は、ヒーロー映画のパロディ、アンチ・ヒーロー映画として描かれている。
 改めて考えてみると、アメコミ・ヒーローってダサくない? マッチョが全身タイツのスーツを着て、空を飛んだり、目からビームを発射したり……。最近はCG技術のおかげで格好良く見えるけど、よくよく考えると馬鹿馬鹿しい。そんなアメコミ・ヒーローのダサくて馬鹿馬鹿しいところをとことん強調して描かれている。

 フィラデルフィアの広場に座って、お菓子をむさぼるシャザムとフレディ(ここはロッキーがトレーニングでいつもやって来る場所)。シャザムが両足を広げている。さすがに14歳はこんなことやんないよ……でも子供っぽさを強調するために、わざとやっている。こういう子供っぽい姿がどうしようもなく愛おしい。

 あれ? このヒーローは戦わないの?
 いえいえ、ちゃんと戦いはあります。映画の後半になって、ようやくヴィランの登場。ここから戦いの物語に変わっていく。ヘタレ・ヒーローの映画……と思っていたらガチなヴィランが来ちゃった。シャザムはスーパーパワーを持った敵に勝てるのか……?

 本編の紹介はここまで。ここからは映画の感想文。

 史上最もダサい、ヘタレ・ヒーロー、シャザム。これがかつて、「スーパーマンの盗作だ」って言われていた作品なんだものな……。2011年のリブートでまるっきり違う作品になったのかも知れないけど。
 今回の映画『シャザム』がどういう映画かというと、すこし懐かしい、クリスマス・ムービーとして作られている。こういう映画、2000年代以前まではクリスマス頃になると毎年たくさん作られていた。クリスマス映画の名作『ホーム・アローン』もうそうだし、『グレムリン』もクリスマス映画。クリスマスになると、こういう家族向けの映画が必ず作られていた。『シャザム』は今時の映画らしく、CG満載の映画だけど、中身は一昔前にたくさん作られていたクリスマス映画。ある程度の年齢の人が見ると、懐かしさすら感じさせる。
 ただ、『シャザム』の公開は日本でもアメリカでも4月。おい、なんでクリスマスにやらないんだ!
 ここまでにすでに書いたように、『シャザム』はヒーロー映画でありながら、アンチ・ヒーロー映画。宿命を背負ってない。世界は救わない。おまけにクソダサい。ごく普通の14歳が、偶然パワーを手にしちゃった……というだけの内容。そういう内容だから、お話しの地平が「宇宙の平和を守るために!」とか「世界征服の陰謀を阻止するために!」ではなく、ごく小さな家族の物語。どのヒーロー映画よりも視点が低い。
 ある意味で『エヴエヴ』に近い構造の作品。『エヴエヴ』は見る人によっては「なんじゃこりゃ」となりやすいが、あの作品をちょっと懐かしいクリスマス映画のフォーマットに落とし込んだのが本作……という解釈でだいたい合ってる。

 ビリーが抱えている葛藤は、「自分の家族とはなにか?」。幼い頃、母親とはぐれて、孤児になってしまった。「本当のお母さんはどこかにいて、自分を待ってくれているはずだ」……いろんな里親に引き取られるけれど、すぐに脱走。なぜなら「嘘の家族」だから。本当の母親のもとに帰りたい……。
 これがビリーがずっと抱えている葛藤。これが物語の主軸になっていて、後半に向けたドラマとしてもうまく機能している。

 ただ引っ掛かるのが、この物語において、「本当の家族」が破滅的に語られていること。見ればわかるけど、この作品は2つの家族を主軸にしている。ビリーの家族と、サデウスの家族。どちらも家族との関係が破綻している。家族・親からの承認が得たい……ビリーもサデウスも同じ心情が動機になっている。ビリーとサデウスは立場や状況は違うが、対となる人間として描かれている。
 そしてどちらも同じ場所でスーパーパワーを手に入れる。同じ場所で力を得るのだから、ある意味同一の存在。しかしスーパーヒーローとヴィランに分岐してしまう。喜劇的なビリーに対し、どこまでも悲劇的なサデウス……一見するとコメディだが、その裏面には悲劇の物語が描かれている。

 ここでちょっと作中に出てくる「家」を見てみよう。
 ビリーが最初に尋ねる家がこちら。庭付きの一軒家で、庭にはクリスマスの飾りが一杯。こうやって外観を見ただけで、穏やかそうな家庭が想像できる。これがビリーが思い描く“理想家族”の様子。今は孤児だけど、本当の自分はこういう家の子供なんだ……。憧れと理想が描かれている。しかし、ここには母親はいなかった。

 ビリーが連れて行かれる里親の家庭。よくよく見ると、お屋敷作りで小洒落た家だし、照明の効果で全体が穏やかなセピアカラーにまとめられている。ただし、微妙に暗い。暗く見えるように描かれている。この暗さがビリーの意識を反映している。しかしよく見ると、家のシーンは、どこを見ても必ず奥行きが見えるように描かれているし、その奥の部屋が意味もなく照明が付いている……というところもポイント。画面は暗いが、この家庭には「暗部」がないように描かれている。
 ただしこの家にいるのは、全員血の繋がらない里子ばかり。「本物の理想家族」を夢見ているビリーにとって、この家族は「ニセモノ」にしか見えていない。そんな気持ちを画面の暗さで表現している。

 いきなりネタバレしちゃうけど、ビリーは最終的に本当の母親を発見する。しかしそこは、見るからに低所得者向けアパート……。最初に出てきた庭付き一軒家との落差……。どこかに理想的な家族があるはずだ……その思いが徹底的に打ち砕かれる。

 「本当の家族」なんてどこを探してもいない……そこでビリーは、里子が集まるビクター&ローザの家庭に気持ちを置くようになる。どこかに理想の家族がある……という幻想を捨て、「自分で家族を作る」という思いに至り、その家族は目の前にあったじゃないか――そこに気付くまでの物語。
 ただ、ビリーの物語にしても、サデウスの物語にしても、どちらも「本物の家族」の幻想に打ち破れている。サデウスはとうとう本当の家族に巡り会えず、ビリーは血縁とはまったく無関係な「寄せ集めの家族」を家族と見なすようになる。
 これも時代なのかな……。本物の家族とは関係性の構築に失敗し、同じ指向で集まった仲間達との共同体に理想のコミュニティを見いだす。実は「理想の家族」が崩壊したその後を描いている。本当の家族には希望を見いだせない……そういう時代の空気なのかも知れない。

 それにしてもビクター&ローザって何をしている人なのかな? この家を建てたか購入したかわからないが、これだけの広さで、これだけの人数の里子を世話している……。現代のアメリカの世相からしても、結構な成功者のように見えるが……。

 『シャザム』はいわゆるな「ヒーロー映画」ではない。世界のために戦ったりしない。そんなアンチ・ヒーローがなんのために戦うのか、それは自分が獲得した小さな家族を守るため。そこに至るまでのごくささやかな物語が描かれている。
 映画の中盤まで、いや後半に入ってもシャザムは自分の力を持て余す、半人前のヒーローとして描かれる。そこでヴィランと遭遇し、ようやく「家族を守るんだ」というテーマを持つようになり、それとともにきちんとしたヒーローとなる。そこまでの物語導線がきっちり描かれている。エンタメ映画として誰が見ても楽しい作品だ。
 そのヴィランであるサデウスは、ビリーと同じ場所でスーパーパワーを得た。つまりシャザムと対となる人物。自分自身のシャドウ。ビリーもああなっていたかも知れない……そういう人物に攻撃されて、ヒーローとして覚醒していく。一見すると緩いコメディに見えて、物語とテーマが気持ちいいくらいにうまく結びついている。
 「世界の平和!」「宇宙の安寧!」……この映画ではどうでもいい。そこから視点を一般家庭レベルに落とし、さらに一昔前の「クリスマス映画」のフォーマットに落とし込まれた作品。ある意味で使い古されたフォーマットの作品だが、そこはやはりシャザムのクソダサい愛おしさ。どのシーンを見ても可愛い。それがあるから、ずっと見ていても飽きることはない。
 本当言うと、この映画、やや展開が遅い。シャザムの力を得るまで35分もかかるし、物語の転換点も1時間ちょっと過ぎたところ。体感としてもやや長く感じる。それでも楽しく見ていられるのは、シャザム役のザッカリー・リーヴァイがひたすらに可愛いから。ダサくて可愛いオッサンがひたすらに楽しい作品だ。

 それにしても、こんなスケールの小さな少年に力を託してしまって、魔術師シャザムは納得しているのだろうか……。人選ミスったな……とあの世で思っているんじゃないだろうか。


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