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映画感想 ハケンアニメ!

 日本を代表するエンターテインメント、アニメ。その市場規模は2兆円とも言われ、毎クール50本近い新作が今この瞬間も生み出されている。制作現場で働く人々は最も成功するアニメ、つまり覇権を取るために日夜戦っている。彼らが目指す最高の頂、それが覇権アニメなのだ!

 原作版『ハケンアニメ!』が発表されたのは女性週刊誌『anan』においてであった。『anan』という媒体だから「仕事小説がいいだろう」……しかし辻村深月は仕事小説の執筆経験がなく、そこで以前から好きだったアニメ業界を取材して、その内実を描く作品にしよう……ということで企画がスタートする。
 そこから辻村深月はアニメ業界に深入りし、かなりの人数の業界関係者に会って話を聞き、アニメの仕事内容がどのようなものなのか、具体的かつ正確に把握できるまで調査を深め、その上で作品が執筆された。
 そうして『anan』誌上において2012年10月から連載がスタートし、2014年には単行本が発売された。表紙絵を飾るのはCLAMPである。
 原作小説『ハケンアニメ!』は刊行されてすぐに話題になり、映像化の企画が立ち上がる。しかし難しいのは「劇中アニメ」をいかにして作るか。劇中にかけられるアニメはせいぜい10分程度だけど、それをいかにも本当っぽく作ろうと思ったら、バックストーリーもキャラクターも背景もかなりガッチリしたものを作らなければならなくなる……。実際の映画本編を観ると、劇中アニメの脚本から絵コンテ、レイアウト、それを繋いだラッシュフィルムまで作られた場面が多数登場している。最終的に仕上げられた「本編」は10分前後程度だけど、その手前の素材が相当なボリュームで作らなければならなくなる。
 ところが現在のアニメの制作は1本でも数年かかる……ということは数年先までスケジュールが埋まっているということであり、引き受けてくれるアニメ会社がなかなか現れず、映画化企画がそのぶん先送りになってしまう。それで映画化が実現したのは原作発表から8年目、映画化企画がスタートしてから7年目にしてやっと……だった。
 劇中アニメを制作したのはコヨーテとProductionIG。2つのアニメが制作されたが、あえて制作会社も制作スタッフも全員違う人が担当することになり、まったくの別作品にするために、制作者同士も一切交流を持たなかった。
(※ 制作会社コヨーテは2021年に解散)
 2022年5月20日劇場公開されるが、初動は芳しくなかった。どうやら「告知不足」が原因らしく、公開初週はトップテン入りすらせず。客入りが少なく、次々と上映終了を決定してしまう映画館が出てしまい、そのままフェードアウトするかと思われた。
 ……が、その後じわじわと評価が上がっていく。作品を観た業界著名人から絶賛する声が上がり、アニメ業界からも「納得の出来」と太鼓判。さらにYahoo!映画、映画COM、Filmarksといったサイトで5点満点中4点獲得、映画レビューサイト「coco」でも満足度91点を獲得。作品を観たという人たちからの評価はすこぶる高く、次第に地位が確立していく。
 その後、第44回ヨコハマ映画祭審査委員特別賞、第14回TAMA映画賞最優秀作品賞、第46回日本アカデミー賞優秀作品賞、優秀監督賞……その他様々なアワードを受賞し、評価が定まっていくのだった。

 では本編ストーリー。

本編画像。2人のプロデューサー、有科香屋子と行城理。有科香屋子は『運命戦線リデルライト』を担当し、行城理は『サウンドバック 奏の石』を担当する。

 20代の女性監督である斉藤瞳は初めてのテレビアニメ『サウンドバック 奏の石』を制作することになったが、同じ5時放送枠に『運命戦線リデルライト』が放送されることになった。『リデルライト』を制作するのは斉藤瞳が憧れる“天才”アニメ監督王子千晴。伝説的な作品『光のヨスガ』から8年ぶりとなる作品というだけあって、『リデルライト』の業界的注目度は圧倒的だった。
 同じ5時枠放送アニメということで、斉藤瞳と王子千晴は対談することになったのだが、斉藤瞳が「憧れの王子監督が“裏”の枠にいるのは光栄です」と発言。それに対し、王子千晴は「そっちが“裏”ね」と返す。ここから対抗心を剥き出しにした2人は、「覇権を取ります!」と宣言するのだった……。

 本編主人公である、新人アニメ監督の斉藤瞳。
 原作は「群像劇」らしいので(読んでない)明確に誰が主人公……というのはないのだけど、斉藤瞳が登場人物紹介されるときは3番手くらい。劇場版では主人公に格上げされて、天才・王子千晴監督に対する“チャレンジャー”というポジションが与えられている。すでに一定地位のあるクリエイターに対し、新人がいかに挑戦していくか……というところで共感しやすいストーリーになっている。
 斉藤瞳はもともとアニメをそんなに観ていない方だったけど、王子千晴監督の『光のヨスガ』を観たことに衝撃を受け、公務員からアニメ業界に飛び込んできた。『サウンドバック 奏の石』で初監督のチャンスを掴むが、同じ時間枠に憧れの王子監督作品が放送されることになって……。

 プロデューサーの行城理。
 斉藤瞳が「作品とは関係ないものは無駄」……と考えるのに対し、行城理は「使えるものはなんでも使う」が信条。行城理は作品にはあまり興味がなく、「いかに数字を取れるか」そのために斉藤瞳をファッション雑誌に売り込み、グッズ製作、ご当地企画……ありとあらゆる媒体に連れ回す。
 「作品至上主義」の斉藤瞳と真逆な性格で、映画前半はぶつかり合うことの多い2人だったが、やがて理解し合う関係になっていく。
 どんなに良いものを作ったところで、埋もれたら無意味……。これは今のコンテンツ制作の内実にも関わってくる。現代は秒単位で様々な作品がありとあらゆる場所から公開される……という時代になっている。どんな良い作品を作ったところで、受け身的な態度で「売れる」「受ける」状態を待っているだけ……の作品が売れることはまずない。こちら側からメディアに売り込まなければならない。そうやってどこかで誰かに引っ掛かる……そういう状況を作って行かなければならない……というのが行城理がやたら数字にこだわる理由。
 コンテンツが多すぎる時代であるがゆえの問題……といったところだろうか。
 斉藤瞳は最初は行城理に反発しているのだけど、作品制作と同じくらい宣伝も大事……ということに気付くようになって、次第に息の合ったコンビになっていく。ここでバディものとしての面白さが出てくる。

 主人公とライバル関係になる作品のプロデューサーがこの人。有科香屋子。
 原作では第1章から登場し、登場人物紹介の1番に出てくるキャラクターだったが、今作では「脇役」というポジションに回る。
 斉藤瞳が行城理プロデューサーに振り回される……という構図に対し、問題児・王子千晴に振り回される……という役割になっている。斉藤瞳&行城理コンビと対象になっている。
 有科香屋子は制作進行からプロデューサーに上がったという人だが、制作進行時代は「彼女が行くと確実に原画が上がる」と言われるほどの敏腕。そんな人いるのか……と言われそうだけど、実際にいる。有名どころはProductionIG社長・石川光久で、石川が現役制作進行だった頃は「彼がいるから作品が成立した」とか「彼のおかげでクオリティが上がった」と言われるほど有能だった。アニメは制作が遅れるもの……そこでうまく調整し、間に合わせるだけでなくクオリティも上げさせるのが制作進行の仕事。石川光久はその後、独り立ちして会社を立ち上げる……というときには業界最強クラスのアニメーターが何人もついていった……というエピソードがあるくらい。
 そんな有科香屋子も「失踪癖」のある王子千晴の扱いに悩まされる。

 彼が『運命戦線リデルライト』の監督を務める王子千晴。
 彼は8年前、24歳にして『光のヨスガ』という作品を発表し、業界内で一大ブームを作った。さらに見た目がイケメン……ということで彼を崇拝する人々に支持され、8年ぶりの新作ということで注目されるが……。
 しばらく観ていると気付くのだけど、王子千晴は若くして「天才!」ともてはやされてしまったがために、「天才監督」というキャラクターを演じなければならなくなった人。人前にできるときには「いかにもなカリスマクリエイター」というフリをしているし、仕事仲間に対しても「天才特有の破天荒」を演じている。
 ……こういう人、本当にいるんだわ。
 そんな彼の「素」が出るのが、有科香屋子に裸を見られるシーン。ここでいきなり「男子高校生」みたいな反応をする。あれが王子千晴の本当の姿。
 あまり知られていない話だけど、うっかり「傑作」や「大ヒット作」なんかを作ってしまうと、「自分の作品に呪われる」という状態になる。周囲からは「天才!」ともてはやされ、その周囲が望むとおりのキャラクターを演じなくてはならなくなるし、その後の作品も変に注目され、イマイチだったらこき下ろされる……。作家として長く生きていくなら、「そこそこの作品」を出し続けるのがちょうどいいわけだけど、しかし作り手となったら信条として「名作を作りたい」という欲求には抗えない……という矛盾を抱える。
 それで私は以前から、『鬼滅の刃』を作ってしまった吾峠呼世晴は大変だろうな……という話をしている。あそこまでの大ヒット作品になってしまうと、次の作品が出しづらい。「個人的なテーマを軽く」……というわけにはいかなくなってしまう。世間がそれを許さない。これは耐えがたいプレッシャーのはず。
 しかもどうやら王子君、8年前の『光のヨスガ』は「うっかりできちゃった名作」だったらしく……。自分の実力を越えちゃった作品をうっかり作ってしまい、回りから「天才!」と持ち上げられてしまったから、王子千晴の苦悩が始まってしまった。作品を作ろうとしても、どう評価されるかわからない……というプレッシャーに耐えきれず逃亡癖がつくようになる。
(うっかり自分の実力以上の作品を作っちゃうと、後が大変なんだ。その1本を最後に姿を消すか、それ以降の作品はイマイチだったね……と言われるようになるか……しかない)
 大ヒット作を作ってしまったから以降は「天才キャラ」を演じなければならなくなったが、実際は泥臭い一介の作家。まず絵コンテを作る時は紙と2B鉛筆の手書き。斉藤瞳がデジタル作画であるのと対象的。実は「アナログ人間」なのだ。
 斉藤瞳が声優の指導に悪戦苦闘しているとき、なにげなく現れて助言するが……ここでも「カリスマクリエイター特有の面倒くさい言い回し」を演じてしまっている。実際にはそれなりの人情を持っているけど、それを素直に出せないのが彼の苦悩。

 『運命戦線リデルライト』と『サウンドバック』の発表会&2人の対談の場面、司会進行の、
「しかしヨスガ以降本当にアニメは凄いですよね。オタクや一部のファンのものではなく、普通の人の一般的なものへと変化しつつあります。さらに一億総オタク化という言葉すら生まれていますが……」
 という言葉に王子千晴は噛みつく。

王子「リア充どもが現実にデートだセックスだって励んでいる横で、俺は一生童貞だったらどうしようって不安で夜も眠れない中、数々のアニメキャラでオナニーして青春時代過ごしてきたんですよ。だけど草薙素子とかベルダンディーを知っている一般的じゃない俺の人生を不幸だなんて誰にも言わせない。暗くも不幸せでもなく、まして現実逃避するでもなく、この現実を生き抜くための力の一部として俺の作品を必要としてくれるんだったら、俺はその人のことが自分の兄弟みたいに愛おしい。なぜなら俺もそうだったからね。だから総オタク化した普通の人々なんて抽象的な表現じゃなくて、そういう人のために仕事ができんなら俺は幸せです」

 凄い台詞だよね。ここでわかるのだけど、王子千晴は“私たち”に近い人間だ。
 私が10代の頃……といえば「オタク」は「犯罪者予備軍」という意味だった。社会を騒がす事件が起きると、その犯人は必ず「アニメやゲームを好んでいた」と報道され、有識者と呼ばれる人たちが「テレビゲームによって現実との区別がわからなくなり、犯罪を犯すようになる」……という言説がその時代の最大の社会問題であるかのように語られていた。その時代の「オタク」と呼ばれた人たちは「危険人物」扱いだった。
 私もその頃、「お前は将来絶対やらかすわ」とさんざん言われてきた。
 ところがあの当時、「お前は将来犯罪者になるわ」と笑っていたようなタイプの人たちが、今「私、オタクなんだよね~」とか言い始めた。
 私はこれを「他称オタク」と「自称オタク」の違い……と呼んでいる。私たちは自分で自分を「オタク」だとは一度も言ったことがない。誰かに「お前はオタクだ」と価値観を押しつけられただけ。今の「私、オタクなんだよね~」と自称する人たちと明らかに価値観が違う。「推し」が誰それとか、今の人は気軽に話すけど、私はあの感覚が理解できない。「尊い」とか「エモい」という言葉も私は使わない。世間的には「同じオタクでしょ」という扱いをするけど、明らかにいって別人種。同じアニメを見ていても、見ているところがまるっきり違う。
 あれから数十年の時を経て、普通の人が「オタク」を自称するようになった。それは私たちの文化が受け入れられたということだから良いことのはずなんだけど……そこになんともいえない気持ちになる。そもそも「オタク」は危険な「犯罪者予備軍」というニュアンスの言葉だった……という話が世間的になかったことになっている。そして間もなく完全に忘れ去られるだろう。かつてそういう意味として使われていた……ということも誰も語らなくなる。世間がこんなにアニメブームで盛り上がってるのに「取り残されてる」感じがする。
 王子千晴は間違いなく、私たち側の人間だ。要するに「オタクを自称する一般人」に向けて作品は作っていない。そういう人たちからむしろ排除された人たちのために作っている。そもそもアニメは、孤独な人に向けて作られた文化だ。
 こういう王子千晴みたいな心情は、その当事者にしかわからず、間もなく忘れられる心情……こういう商業作品のなかではオミットされるような心情だけど、ちゃんと取り上げてくれている。今のオタクと自称する人たちと、かつてオタクと呼ばれた人たちとの心情の差異を言葉にしてくれている。ここの台詞があるだけで、私はこの作品を信用してもいい、と感じた。

 その王子千晴監督作品『運命戦線リデルライト』。ビジュアルが幾原邦彦っぽい。実際に幾原邦彦作品がイメージ元にあり、さらに『魔法少女まどか☆マギカ』もイメージに入っている。
 モチーフがバイク……ってなんじゃそりゃ、という感じだけど、「疾走」する画面イメージが映画終盤にかけて力強い痛快さを与えている。映画の後半、盛り上がっていく展開の中に『リデルライト』の滑走するイメージが挿入されると、いい感じに勢いが出るんだ。そういう画面の効果を想定した上で作られているとしたら、うまく計算されている……といえる。

 『サウンドバック』の主演を務めるのが高野麻里佳(作中では「郡野葵」)。最近の声優さんは本当に見た目が綺麗になって、こうやって普通に映画出演しても映える。隣に女優さんが立っていてもアイドルらしい存在感を持てるくらいのルックスだから、凄い時代になった。本業アイドルよりも可愛い。
 こんなふうに最近は声優の見た目が綺麗すぎて、そこで人気も出るようになってしまったから、そこで妙なこと……というか「いびつだな」、と感じることも増えた。明らかにキャラと声が合ってないのに、人気だけで採用されるとか、演技力は別として本人が可愛いから選ばれる人とか……。誰が、とかは言わないけどね。アニメ紹介PVでキャラクター名よりも声優の名前のほうが大きく表示されているのを見て……気持ちは複雑だけど今はそっちのほうが売れるしな……とか思う。
 斉藤瞳監督は実直な「作品至上主義」の人間だから、郡野葵のようなアイドル人気の声優が大嫌い(わかるわ~)。アフレコでも不必要に厳しく当たる。実際のアニメシーンなんかを見ても、キャライメージと郡野葵(高野麻里佳)の声がまったく合っていない。合ってない人をあえて選んできている。商業的理由だけで選ばれた人……というのがわかるように作っている。

高野麻里佳が演じることになるキャラクター・トワコ。キャラクターのイメージと声がぜんぜん合ってない! キャラと声が合ってない……というのも映画の演出として描かれている。でも郡野葵が演じることになって、そのファンがまず作品に集まってくる……という構図が作られていく。これも「数字」にしか興味ない行城理の戦略だ。

 私のお気に入りキャラクターの並澤和奈。実力派アニメーターとして『サウンドバック』『リデルライト』両方の作画を担当する。
 プライベートをすべて犠牲にしてアニメに捧げているような人。人情味のある職業人だから、斉藤瞳と初めて会ったとき、「あなたなんですね。あの子達のお母さん」……と愛情たっぷりに話す。人情家だから頭を下げてお願いされると断れない。そういう人情で仕事するかどうかを決めてしまうし、その人情を作品にぜんぶ注いでしまう。
 私はこういうタイプの職業人が大好きなんだ。心情的に自分と近いものを感じるんだろうね。
 並澤和奈は本編中、ずっと顔を出してはいるんだけど、その後あまりいい役割は与えられず。私個人的にこういう人物が好きだから、ちょっと惜しいな……と感じてしまう。

 もう一つ、面白いのは作画スタジオ・ファインガーデン。中学校だったところを買い取ってアニメスタジオにしている。実際にこういうアニメ制作スタジオが実在するかどうか知らないけど……あるかも知れないとちょっと思わせてくれるようなロケーション。
 『サウンドバック』の制作はトウケイ動画、『リデルライト』の制作がスタジオえっじだが、その動画下請けはどちらも同じ会社で引き受けている……という構図になっている。

 面白い設定だけど、ひとつツッコミどころといえばこの場面。同時刻に放送するアニメを、衝立一つ立てた同じ部屋で視聴する……というシチュエーション。いや、音が混ざって集中できないでしょ。絵面として面白くなっているんだけど。

最終的に仕上げられた動画は10分ほどだったが、映画中では制作中の様々な素材が出てくるので、実際には脚本、設定、絵コンテ、背景、原画、動画……と色んな段階の映像素材が作られた。

 実写映画の業界にいる人達は、はっきりいって漫画・アニメの業界の人たちを「格下」と見なしている。実際にドラマ化の経験があるとある漫画家が動画で語っているのだけど、実写業界の人たちは「作品を使わせてください」ではなく「使ってやってもいいよ」……という感覚だったという。そういう「見下し」感を会議の場で隠そうともしなかったとか。バラエティ番組でも漫画原作の実写化は、だいたいにおいて作り手に対してもそのファンに対してもやや見下しを入れながら紹介する……というのが実写界隈の昔ながらの対応だった。
 だから漫画の実写化は失敗する。元々の作品に敬意がないから平気で改変する。それでも「漫画の実写化」という話題だけで充分集客できるので、問題なし……だった。
 現実を見ると、邦画興行ランキングの上位はほとんどアニメ映画。いま監督の名前で集客できるのはみんなアニメ監督。でも王子千晴監督が言うように、アニメの話題には「一般性がない」と思われている。一般性があるのは特に演技の実力もなく、見た目だけのアイドル俳優ばかり。こういう実体を見て、本当の格下はどっちなんだい……と聞きたくもなるが、実写映画業界の人たちは「自分たちが一般性を獲得している」と勘違いを続ける。
 で、こういうアニメ・漫画の業界を題材にした作品ってだいたいにおいて「なんだこれ」という内容にされることが多い。これも一種の職業差別なんじゃないか……そういう意見もある。

 私も正直なところ、この映画の話を聞いたとき、またそういういい加減に作ったやつなんだろうな……と思っていた。でもとりあえず見てみるか……するとビックリした。ちゃんと「アニメ業界」が描かれている。私もアニメーターだったが、現場で見た風景そのものが映画の中できちんと描かれている。
 本作にはかつて描かれがちだった「差別的な視点」が全然ない。実写映像で初めて真摯的に描かれた業界ものとして非常に優秀。
 もしかしたら実写界隈の人たちはようやくプライドを捨てたのかも知れない。

 ただツッコミどころもあって、例えば「同じ放送枠でアニメを放送し覇権を競う!」……というのが本作の大枠だけど、現実にはこういうお話しはない。横で大ヒットアニメが生まれていたとしても、業界の人たちはさほど気にしない。ただカリスマ監督とチャレンジャーである新人監督という対決の構図を作る……というところでエンタメ的な面白さを作っているのはわかる。
 その対決が「視聴率」……ということになっているけど、今の時代、視聴率は業界的にもさほど重要視されていない。そもそも「テレビで見る」というユーザーが圧倒的に少なくなって、どちらかといえば「再生数」。ついでにいうと、原作小説が出た時代から8年も経っていて、「覇権アニメ」といった言葉も最近ではあまり聞かなくなっている。
 それに視聴率対決……という話になったら、圧倒的王者である『サザエさん』には勝てない。今は若い人に話題となっているような作品ばかり注目されがちだけど、アニメ視聴率の絶対的王者は『サザエさん』。なにしろ見ている世帯数の幅が段違い。『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』『ドラえもん』……このあたりの昔からやっているアニメに対し、深夜アニメは絶対勝てない。『サウンドバック』と『リデルライト』も実は『サザエさん』の視聴率には勝ててない。
(この『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』『ドラえもん』の間に入ってくる『名探偵コナン』はやはり強い)
 この辺りも、お話しとして面白くするため……の誇張表現。

妙にリアルなのがスタッフ達とのやりとり。スタッフによって性格がまるっきり違うから、それぞれに合った伝え方をしなければならない……という描き方をしている。スタッフによって「具体的な指示」の在り方はまったく違う。私が印象に残っているのは『もののけ姫』のメイキングドキュメンタリーで、宮崎駿が「砂金の大粒の色が違う」と短冊のカラーチャートを持ってきて、「この色に変えてくれ」……と具体的に色の指示をしていた場面。そうやって指示をするものなのか……と感動した記憶がある。アニメーターの棚に作画用紙が無秩序に突っ込まれている様子を含めて、妙にリアル。先輩の机の整理を手伝ったことがあるのだが、数年前のアニメの設定がポロッと出てきたりして、なんだか面白かった経験がある。

 他にもアニメの現場であんなに声を張ったりはしないな……とか。アニメの現場はみんな黙々と作業をしているのだから、声のトーンはやや落とし気味になる。図書館で大声で話したりしないでしょ。それと一緒。
 この辺りもお話しを面白くするための誇張表現。映画的な面白さを追求した結果なので、まあ許容範囲。

現場にいる人達の「顔」がまたリアル。それっぽい風貌の人たちを揃えている。今の若い世代は過剰な「見た目主義」だから「ダサい」「オシャレじゃない」というかもしれないが、現場にいる人達はだいたいこういう格好でこういう顔。アニメの現場は泥臭いところなんだ。というか、仕事の場でオシャレなんてしてどうするよ。

 微妙な引っ掛かりどころはあるけれども、ぜんぶ小さいもの。だいたいにおいて、現場風景の描写に間違いがない。
 誇張表現やコミカルに描かれている部分はたくさんあるけども、それらはエンタメとしての面白さを作るためのもの。映画の前半では理想はあるけどスタッフとのコミュニケーションがうまく取れなかった新人監督が、少しずつ成長し、最後にはたくさんいるスタッフの最前線に立ってみんなを引っ張っていくようになる。変な誇張表現はあるけど、それは映画後半に向けたこの盛り上がりどころを作るための仕掛けなので良い。

 『サウンドバック』『運命戦線リデルライト』ともに抱えているのが「最終話どうしようか」問題。放送が始まってからも、最終話の内容が確定していない。
 これも実際にはあり得ない話。アニメの制作は1本作るのに、3ヶ月ほどかかる。脚本や絵コンテから……となるともっと時間が掛かる。よく一般メディアは「あの作品は不評だったらしく、急遽展開が変更されたらしい」とか「あのキャラクターが話題になったから登場シーンが増えたらしい」とか気軽に書くけれど、実際にはそういうことはほぼない。制作に3ヶ月かかるものだから、先週放送の話題を聞いて、そこで翌週のストーリー内容を変更する……なんてことは不可能だ。あるとしたら小さな微調整くらい(一般メディアはアニメが1週間程度で作れると思っているんだろう)。
 ところが本作ではやはりエンタメとしての盛り上がりを作るために、後半の土壇場になって急に最終話を変更する……という展開が作られる。
 しかしアニメは制作に3ヶ月かかるもの……このあたりの問題を知っている人に向けて、どのようにリアリティを担保するのか……というアンサーが上のシーン。
 なにをしているのかというと、急遽最終回を変更しよう……ということになった。しかし今から絵コンテから描き直す……なんて時間はない。そこでできあいの絵コンテをコマごとに裁断し、必要に応じて書き足ししたりしてカットの順番を変え、そのカットの横に新規の台詞を置いていく……という手法が採られている。
 さらに声優には手書きメモの台本が渡される。
 作画も制作が進行しているはずだから、そちらも変更された絵コンテに合わせて構成が変更されたり、書き足しされたり……で対応されたのだろう。
 こういった展開を作ることで、「土壇場で最終話変更! 絵コンテからなにもかも描き直し」……ではなく現場の工夫によってうまく書き換えられた……というリアリティをギリギリ担保している。
 こういうところも、現実としてギリギリあり得る可能なラインで表現されている。「ギリギリあり得るかも」であって、実際にはないけど……。

 今まで映像作品の中にアニメの関係者が描かれるときは、だいたいにおいてこれみよがしな「不審者」の扱いだった。実写映像を作っている人たちの中に、アニメ界隈にいる人達への差別意識がはっきりあった。そういう傾向は今においてもあまり変わらない(「差別意識」というものはまずその差別が意識されないことにある。
(つまり、実写の業界に行きたがる人……というのがそういう人たちってこと)
 今作の画期的なことは、はじめて「職業差別」的な意識を乗り越えて、アニメ業界が正しく描かれたこと。それでいて、エンタメとしてかなりしっかりした作りになっている。
 まず画作りがきちんとしている。日本の実写映画の世界で長らく欠落していたのが「ルック」。「画面で語る」ということができない。邦画の興行ランキング上位はいまアニメがほぼ独占状態だが、どうしてこうなるかというと、アニメは「画面で語る」ということができていたから。新海誠なんてそこが神がかって上手い。邦画のつまらなさは、まずいってそのシーンの画でなにを語りたいのか読めないから。画面で語る……ということができない実写作品が批評家を含めて支持されなくなった。
 そういう実写映画が抱えていた問題もきちんと解消している。そのうえで、シリアスな作品の中にコミカルなシーンが一杯散らされていて、後半に向けた盛り上がりもしっかり描かれている。エンタメ映画としてしっかり「合格点」を獲れる作品になっている。
 そのエンタメ映画としての土台がしっかり作られた上で、アニメ業界にいる人たちの心情が掘り下げている。現場にいる人達がどういう人間で、1本の作品を作る過程でどんな葛藤と戦っているのか……。そこに嘘が感じられない描き方になっている。
 それとともに、久しぶりに海外に紹介すべき映画が出たんじゃないか……という気がした。というのも、アニメ人気は今や世界的なもの。みんなアニメに興味がある。私はFacebookを通じて海外の人ともぽつぽつと交流しているが、中心にあるのはアニメ。そのアニメ業界を描いた作品を見たがる人はかなり多いのではないか。
 「日本のアニメってどうやって制作されているの?」そう聞かれたときに紹介できる映画があるとしたら、この作品だ。久しぶりに海外の友人に紹介できる実写映画だ。


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