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映画感想 ドント・ルック・アップ

 映画の話をする前に、こんな話を……。
 2017年10月19日、マウイ島ハレアカラ山脈に置かれたパンスータズ天体望遠鏡を使って、新規の天体が発見された。発見者は天文学者のロバート・ウェリック。
 その天体は長く平べったい形をしていて、彗星でもないし小惑星でもないので、新たな名前が必要だった。そこで付いた呼称がオウムアムア。ハワイの言葉で「遠方から初めての使者」という意味だ。
 このオウムアムアは時速31万キロの速度で――地球に向かっていた。

 画像を見てわかるように、太陽系の軌道に進入して、方向をぐにゃっと転換するほどに接近していた。だがオウムアムアは地球から2400万キロのところを通過しただけで、宇宙の彼方に去ってくれた。とはいえ、地球の軌道にも重なっているので、うっかりタイミングが合っていたら……という危ない状況だった。
 知らない間に、私たちは「人類滅亡」の危機を迎え、知らない間にするっと回避していたわけである。後で知って、ゾッとした気持ちになった。

 『ドント・ルック・アップ』では、「もしも……」が描かれる。あの時の小惑星がもしも地球に真っ直ぐ向かっていたら……。その時、人類はどうしていたのか?
 こういった話を聞くと、1998年の大ヒット映画『アルマゲドン』や『ディープインパクト』が思い浮かぶだろう。ああいった映画では、英雄的な誰かが犠牲になって隕石の接近を食い止め、地球滅亡の危機は回避されるわけだが……。でも本当に『アルマゲドン』のような事態が起きた時、私たちは、あるいは社会はどのように反応するのか……? 私たちは本当に人類滅亡の危機と向き合えるのか? それを描いた作品が本作『ドント・ルック・アップ』である。

 Netflix制作映画で、劇場公開は2021年12月にごく一部だけ(劇場公開をやっておかないと、後々賞レースに出られないから……という事情もある)。
 監督・脚本・製作はアダム・マッケィ。アダム・マッケィが本作のために参考にした映画というのが、『博士の異常な愛情』(1964)とまさかの『26世紀青年』(2006)。『博士の異常な愛情』はスタンリー・キューブリックの名作ブラックコメディとして知られているが、もう一方の『26世紀青年』はほとんど知られていない。日本では劇場公開もされておらず、ビデオ販売もされなかったイロモノ系映画だ。『26世紀青年』については当ブログでも一度取り上げたので、そちらを参考にして欲しい。
 主演はレオナルド・ディカプリオ。かねてより「気候危機をテーマにした作品に出演する機会を探していた」と語っており、『ドント・ルック・アップ』の企画を聞いて一番に出演を名乗り出た。レオナルド・ディカプリオに続いて、メリル・ストリープやケイト・ブランシェットといった名優がずらりと集まる。ネット配信映画とは思えないくらい豪華なメンバーが揃った映画となった。

 では前半の25分のストーリーを見てみよう。

 ミシガン州立大学の天文学博士課程に在籍するケイト・ディビアスキーはすばる望遠鏡で木星軌道のガスを観察していた。その時、未発見の彗星を発見する。
 新たな彗星を発見した! 研究所みんなでお祝いすることになった。ランドール・ミンディ博士もやってきて、ケイト・ディビアスキーの発見を祝福する。
 でもこの彗星はどこに向かっているんだろう……? 軌道力学なんて学生の時以来だな……座標は……ふむふむ……。  ……みんな、今日はここまでにしないか。みんな帰ってくれ……。
 彗星が向かっていた先は――地球だった。
 彗星が地球に衝突するまでおよそ6ヶ月……。NASAでも彗星が間違いなく地球に向かっていることを確認した。
 NASA惑星防衛調整局局長(実際にあるらしい)のクレイトン・オグルソープ博士もこの事態を確認し、ランドール博士とケイトを連れてホワイトハウスへ向かう。

 映画が始まって10分ほどでホワイトハウスに到着するが――なんと大統領は会ってくれない。待合室でえんえん待ち続ける無意味な間が挟まれて……。大統領との面会が叶うのはなんと翌日。映画が始まって18分である。
 ようやく大統領に会うのだが、大統領の懸念は「隕石衝突」ではなく、間もなくやってくる中間選挙に勝つこと。その隕石を世間に発表して選挙に有利になるか否か……しか興味がない。隕石が地球に激突する可能性は99.78パーセントだが、それをそのまま発表すると国民がパニックになる。70パーセントの確率っていうことにしよう……。
 と大統領にいくら話してもまともに受け取ってもらえない。
 結局、まともに相手にされないまま、ランドール博士とケイトはホワイトハウスを去って行くのだった……。

 隕石が地球に向かっている! 映画『アルマゲドン』のような導入部分だが、ホワイトハウスに行ったところで大統領はなかなか会ってくれないし、会ってくれても中間選挙のことばかりで真面目に受け取ってもらえない。「地球存亡の危機!」……といっても、国は「おおそうか! 大変だ!」とか言って動いてくれない。
 ホワイトハウスには日々「地球の危機」の話が持ち運ばれてくる。環境汚染だのなんだのという話は日々聞かされている。ホワイトハウスは毎日聞かされているよくわからない「地球の危機」話の一つだと思って相手にしてもらえない。
 この前半のシーンからして、すでに度しがたい展開が始まっている。馬鹿馬鹿しいが……現実だとこうなるかもしれない、そう思わせる怖さが描かれる。
 ところでこの女性大統領、「トランプ大統領をモデルにしている」とよく言われるが……いや、ヒラリー・クリントンじゃないかな? 42代大統領ビル・クリントンそっくりさんの写真が出てくるし……。もしもヒラリーが大統領になっていたら……という世界線の話じゃないかな、これは。
 まあトランプ大統領だったとしても、似たような対応したんじゃないかな……という気もするけど。

 では次の25分のストーリーを見てみよう。

 次の25分の冒頭は、スマートフォン発表会のシーンから始まる。ハイテク企業BASHのCEO・ピーター・イッシャーウェルが新たなスマートフォンを発表する。
 それはさておき、大統領に相手にされなかったランドール博士とケイトは、新聞社に情報を売り込もうとする。ケイトの彼氏はヘラルド紙の記者だ。そこからの繋がりで、新聞社を紹介してもらえた。
 その新聞が出る前に、朝の番組「ザ・デイリー・リップ」という番組に出ることになった。
 番組が始まるのだが……世の中の話題は人気アーティストのライリーとDJチェロの破局報道で大盛り上がりだった。朝の番組「ザ・デイリー・リップ」で「DJチェロと話したらどう?」と生中継が繋がる。そこでライリーとDJチェロが復縁することになり……。
 これで世の中は大騒ぎ。その日のネットはライリー&DJチェロ一色に染まる。
 という報道の後に、ランドール博士とケイトが番組に出ることになったのだが……ケイトが番組の雰囲気に緊張し、しかもまともに話を聞いてくれない番組側にパニックになってしまい、「地球が崩壊するのよ!」と叫んでその場から去ってしまう。
 その結果――ネットの情報を精査すると、みんなライリー&DJチェロ話題一色で、肝心の「隕石衝突」の話題なんて誰もしていない。それどころか、番組中にパニックになったケイトを弄るネットミームばかりがネット上で氾濫する事態を生んでしまった。それどころか、ケイトの彼氏が裏切り、「人類滅亡を唱えるバカ女とヤッちまった」というニュース記事が上がる。
 誰もランドール博士とケイトの話を信じてもらえない。誰も深刻に受け取ってもらえないし、それどころか陰謀論の扱い。
 ランドール博士とケイトのもとにはFBIがやってくる。「隕石による人類滅亡」の話は大統領によって「国家機密」の扱いになっていた。それをテレビ番組に話したことによって「国家安全保障罪」を問われ、逮捕されてしまう。
 再びホワイトハウスに呼び出されることになったのだが、そこで大統領から、「隕石を撃ち落とすためのミッションを始める」ことになった……という話を聞かされる。
 一見朗報のように聞こえるが、大統領の彼氏で元AV男優とチンコ写真を送り合っていたことがバレて、中間選挙に負けそうだから、隕石撃墜を演出して支持率回復……というのが本当の狙いだった。

 そこから間もなく隕石の軌道を変えるためにスペースシャトルが放たれるが……その直後、思わぬ事態が起きてしまう……。

 Bパートの冒頭はスマートフォン発表会から始まる。ジョブズ発明の悪魔の道具・スマートフォンだ。
 どうしてスマートフォン発表会にこうやって尺を取るのかというと、現代人はみんなスマートフォンに時間や思考が飲み込まれてしまっているから。スマートフォンから毎日溢れ出てくる情報に対処できなくなっている。映画の中身も、「スマートフォンで交わされている情報」に飲み込まれる人々の姿が描かれている。
 その一方で、ランドール博士とケイトはそのスマートフォンで交わされている情報を制しなければならないというミッションが課せられるわけだが……。
 しかし世の中のニュースは、その直前に流れた人気アーティストのライリー&DJチェロの復縁話一色に染まってしまう。ライリー&DJチェロのニュースで大騒ぎ……という直後にランドール博士とケイトが番組出演して話さなければならない……という無茶苦茶な状況になってしまう。

 この番組中にケイトはパニックに陥ってしまい、その姿がネットミーム扱いになって広まるのだった……。
 という現象だが、これが「今」という時代を映しているといえる。私はとあるニュース番組をYouTubeで聞いているのだが、コメント欄を見ていると「こいつの話し方が気に入らない」「このネタはもう飽きた」「何となく嫌い」というコメントが結構多い。つまり、「話している内容」について、わりと多くの人がどうでもいいと感じているのだ。「話している内容」がどうこうではなく、「話し方」や「振る舞い・見た目」のほうが重要視されている。この傾向は、「一部の声の大きな少数派」ではなく、ひょっとすると「多数派」じゃないか……というくらい進んでしまっているのではないか……という推測が出ている。
 怖いことに、これが今の時代の標準的な認識になりつつあることだ。今の時代「見た目」が何より重視される。見た目に好感が持てるか、振る舞いが美しいか……。要するに「インスタ映え」するかどうか……。その瞬間だけで、印象がいいか悪いかで物事が判定される。
 食べ物にしても、いつの時代から「インスタ映え」が重視されるようになった。大量にチャーシューが載ったラーメンとか、大量にクリームが載ったパンケーキとか……。あんなものが美味いわけもないし、栄養面でもいいわけがない。でも今の時代は、「見た目がいいものは、良いもの」という認識が広がってしまっている。逆に言えば、「見た目が悪いものは、良くないもの」だ。
 『人は見た目が9割』という本がかつてあったが、今では「見た目が10割」の時代。見た目が10割の時代で、「じゃあそのご飯美味いのか?」とか「それは効果があるのか?」というのは2の次、3の次……どころか周辺要素から抜け落ちるという状態にすらなっている。現代人は「見た目がどうか」にしか興味がなくなっていっている。
 「本質」なんてどうでもいいというか、本質なんてものは今の時代、ほとんどの人は議論しなくなっている。本質がうすーく消えかけているのだ。

 つまり「好感」を持てるかどうか……。「本質」なんてもはやどうだっていいんだ。「本質を理解してくれる」なんて期待しない方が良い。
 今、企業が採用したい人材は、「見た目は悪いが、頭のいい人」ではなく、圧倒的に「見た目がいいだけのバカ」のほう。
 政治の世界になると「実績」がどうかじゃなくて、もはやその政治家に「好感」を持てるかどうかしかない。作中でも、喫煙をめぐって、コソコソ隠れて吸うのはやめて堂々と吸うようになったら、「正直で好感が持てる」と支持率が上がった……なんて馬鹿げたエピソードがある。現実の政治ももはやそういうものでしかなくなってるんだ。政治がそういうものになってしまっているから、みんな政治的な実績どうこうより、「いかにすれば好感が持たれるか」……という考えしか持たなくなってしまっている。
 それはアメリカの話だけではなく、日本でもそう。みんな「支持率」しか見ない。「実績」で評価しない。実績を見れば結構いろいろ成果あるのに、みんな支持率だけを見て、「あの総理は支持率が低かったから悪い政治家だったね」とか言うようになった。素人ならいざ知らず、プロの政治評論家でもそういう認識になっている。テレビのコメンテーターでもだいたいそういうのばっかりでしょ。
 政治の世界がそうなってるから、支持率を維持するためにワイドショー的な政治を執るようになっていく……。
 今の時代、とっくに「本質」なんてものはないんだ。

 どうしてそうなってるのか……というと、悪魔の道具スマートフォンだ。
 今や世界中の人がスマートフォンをスワイプして、情報をするっと流し読みにする。一つの画像をじっくり見たりしない。一瞬だ。動画にしたって、2時間じっくり見るものよりも、TikTokのような数十秒のものばかり見ている。見るのが一瞬だから、その一瞬で好感が持てるかどうか……くらいの判断しかできない。その程度でしか物事を考えたり、情動を動かしたりしないようになっていっている。スマートフォンという文明の利器を手にしたことによって、人間の動物化が加速度的に進んでいる。
 ストレートに「バカになりかけている」と書いた方が伝わりやすいかな。こういうところ、あのトンデモSF映画『26世紀青年』に通じる描写だ。
 『ドント・ルック・アップ』は恐ろしいことに、そういう状況に陥っている現代人の姿をまざまざと描いている。

 しかしBパートの最後、大統領は一転して、地球に接近する隕石の存在を認め、対処する……と申し出る。
 なぜ急に認めるのか……というと、中間選挙に負けそうだから。そんだけ。人類滅亡の危機も、選挙の演出にされてしまう。
 でも、理由はどうであれ、人類滅亡の危機は回避された。ランドール博士とケイトはようやくホッとするのだった。

 ……が。
 真に痛切な展開はここからだ。まさかそんなことが……と、見ていて頭が痛くなるような事態が起きてしまうのである……。
 ここからの展開は、実際の本編を観てもらおう。「度しがたい」とはまさにあのことである。

 ちょいと余談。
 大統領のスーツだが、1回目の登場シーンの時には赤のスーツで登場する。2回目の登場シーンは青のスーツ。
 「ザ・デイリー・リップ」の司会者、ブリー・エヴァンティーも初登場時には赤のドレスを着ているが、2回目の登場シーンでは青のドレスで登場する。
 関連性だけど、この映画では「ハレの舞台」に立つ時には赤のスーツ。軍艦の上で「隕石を破壊するわ!」と発表するシーンでも、大統領は赤のスーツで決めている。
 一方の青のスーツを着ている場合には、何かしら秘めたものを抱えているという時。
 大統領が青いスーツを着ている時はランドール博士と密談するシーンだし、ブルー・エヴァンティーが青のドレスを着ている時は、テーブルの下で太ももを探り合っている。
 大統領とブリー・エヴァンティーの服の色がなぜか噛み合って描かれるのは、たぶんこの2人が「鏡面」の関係性だからなのだろう。どことなくつながり合っている2人。ランドール博士を翻弄し、計画をぐちゃぐちゃに妨害していく女性……といったところだろう。大統領は最高権力者として、ブリー・エヴァンティーはランドール博士のプライベートに立ち入って破壊していく。

 さて、映画の紹介はここまでだ。
 『ドント・ルック・アップ』を見て思ったこと――それは人間の認知能力の問題だ。
 このブログでは度々「人間の認知能力はたいしたことがない」と書いてきた。その第1の根拠となるのは「ダンバー数」。ダンバー数というのは、人間が一度に認識できる他人の数は150人までだ……という考え方だ。街でも学校でも会社でも、150人までなら「あの人は○○に所属している○○さん」と認識できるが、150人を超えると「同じ制服を着ているから同じ組織に属している誰かだろう」……という認識に変わってしまう。ただの「群像」としか認識できなくなる。会社の社員が150人までなら、その全員の顔を認識して仕事内容を把握することができる。
 一度に認知可能な人間の数が150人が限界だとすると、では認知可能なコミュニティの数はどれくらいだろうか? おそらく、2~3あたりが限界じゃないか……というのが私の推測。これについて調べた人はいないのだが、私の感覚で2~3あたりが限界だと考える。

 なぜ大会社は「下請けいじめ」をするのか? 大会社が非道だからか? そうではない。認知外だからだ。自分の会社内で認知可能な限界に達しているので、下請けがどのような状況に陥っているのか認識ができない。報告を受けていたとしても、それがどんなに大変な事態か、想像することができない。「どうしてただの群像に過ぎない者に対して配慮しなくちゃいけないんだ」と考えるようになってしまう。想像力のある人なら想像で補えるが、「普通の人」の想像力はやはり大したことがない。
 大企業が下請け企業の声を直接聞いて、何かしら解決に向けた方策を採るということは絶対にない。まず前例がない。大企業が下請けの問題に手を加える時というのは、外部――つまり顧客によるバッシングが来た時、あるいは顧客からの直接の評価が落ちるかもしれない、という事態に陥った時だ。「自己保身」で下請けの問題に取りかかるのであって、下請けからの実際の声を受けて何かすることは絶対にない。なぜ認知外の声を聞いて何かしなければならないのか……それがわかる人は世の中に存在しない。どんな頭のいい人でも、これを理解できている人はこの世にいないはずだ。

 ネットイジメなんかも、なくならない理由は近いところにある。ネットの向こうの人なんて認知外だから、「さすがに可哀想だな」「可哀想だからスルーしよう」なんて意識は働かなくなる。「物」と一緒の認識になる。そういう認識から外れる対象をいくらでも知ることができてしまうことが、ネットの怖いところでもあるんだけど。
 大企業の上辺が下々の世界が認知外になる……というのであれば、当然ながら下々の人から見て、上辺にいる人達は認知外になる。企業だけではなく、国に対する意識も同じ。政治家は庶民のことなんか知らないし興味はないし、庶民は政治家のことはよくわからない。どちらも認知外の世界だからだ。なんとなくわかったつもりになるくらいでしかない。

 人間は昔から山の向こうや海の向こうに「死の世界」や「神の世界」を当てはめて考えていた。昔の人にとって、山の向こうや海の向こうが認知外の世界だからだ。
 現代人はこのようには考えない。山の向こうには別の街がある……ということを“知って”いるからだ。地球は丸い、というのが現代人の認識だから、海の向こうには陸地があることを“知って”いる。でも知らないことになると、途端に“認知外の世界の闇”が姿を現す。幽霊が電話を掛けてくると恐れたり、ネットのどこかに霊界を繋がるサイトがあると信じ込んだり……。
 単に“対象”が代わっただけで、人は相変わらず自分の認識している向こうの世界に、死の世界や神の世界があるのかもしれない……と潜在的に信じている。
 それが悪いとは言わない。人間はそういうものなんだ、とわかっているから、今さらそれがどうこう言うつもりもない。
 ただそれについて、自覚を持っているかどうかで、物事の考え方ははっきり変わってくる。私の場合、それを知りつつ、そういう死や神のイメージで「遊ぶ」ということをやりはじめちゃうタイプだが……これは職業的なものだろう。

 さて、いま私たちは「人類滅亡の危機に瀕している」。
 ……と、言われてイメージできるだろうか。ディストピアSF映画のイメージはできるだろうけど、何かしらで人類の危機に直面している……と言われてもピンと来ない。環境汚染で地球が崩壊する? 温暖化によって全ての土地が海に沈む? そういう知識を与えられてもまったくピンと来ない。すべて認知外だからだ。そんなこと言われても、庶民である私たちに何ができるんだ?
 “知った”ところで“理解”ができない。なぜなら認識可能な限界を越えているからだ。認知の限界を超えた現象について知らされても、対処しろと言われても現実的なイメージが沸かない。

 今回の映画感想文冒頭に、オウムアムアに関する話を書いたが、私はこの記事を書くにあたり、「そういえば数年前、地球に接近してあわや衝突という小惑星があったな……」とネットで調べて、間もなくそれがオウムアムアと呼ばれる新奇の小惑星だとわかり、「オウムアムア」という名前で検索してみると――。
 ビックリ仰天!
「オウムアムアの正体は宇宙人の探査艇だ!」
 とする記事が出てきた。それも1つ2つではない。Wikipediaの記事が最初に出てきたが、その下にはズラーッと「オウムアムアは宇宙人の探査艇」「地球を調査するために近くまでやってきた調査船」という話が並ぶ。
 ああー……これ『ドント・ルック・アップ』だ……。『ドント・ルック・アップ』で描かれたお話を、まさに現実で見ちゃった……という瞬間だった。

 オウムアムアも、うっかりすると地球に衝突、人類滅亡という結構危うい事件だった。しかし陰謀論を唱える人達の手にかかると、それら全てが「宇宙人の仕業」に変わってしまうのである。
 どうしてそのような思考になるかというと、認知外だから。宇宙というよくわからない領域からやってきた、なんだかよくわからない何か……。ある特定の人達は、そういう認知外の現象や何かしらの介入があると、そこに「宇宙人」を当てはめてしまう。昔の人が認知外の領域に死の世界や神の世界を当てはめていたように、そういう思考回路の人々はそこに宇宙人を当てはめてしまう。
 ということは、宇宙人はひょっとすると「宗教」なのだろうか……。認知外なので私にはわからない。
 とにかくも『ドント・ルック・アップ』はある意味でフィクションではない、ということを確認した瞬間だった。

 『ドント・ルック・アップ』の作中に、スマートフォンが重要なアイテムとして登場してきている。おそらく映画の制作者も、スマートフォンを「悪魔のツール」と認めているからだろう。
 スマートフォンの危うさは、持つ人に“万能感”を与えてしまうことだ。最新のスマートフォンを手に入れたことで、自分のグレードも同時にアップデートしたかのような錯覚を得る。若い人の間では、最新のスマートフォンを持っているかどうかで格付けを……「オレ、最新のスマートフォンを持っているんやぞ」マウントを始める人もいるそうな。
(ある意味、スペックの高いゲーム機を持っているぞマウントも似たような感覚かもね……)
 でもその全能感は錯覚に過ぎない。
 スマートフォンの恐ろしさは、様々な情報を細切れにして提供されることだ。それで一見するといろんな世界について知ったつもりになるけれど、実際はうすーく引き延ばされているだけ。みんなスマートフォンを介して見る情報は数秒とかそれくらい。それくらいの瞬間で、好感を持てるかどうか、動物的に情動でのみ判断するようになっていく。
 人間の認知能力は、150人限界説であるダンバー数を超えることはほとんど不可能だろう。だが一方で、“認知能力が減少”するということはあり得る。認知能力がうすーく引き延ばされ、目の前にぶら下げられた情報に対して、情動でしか判断できなくなってしまった人々――私はこういう人達を「犬並みの認知能力の人達」と呼んでいる。
 犬は道行く人に吠え立てて、通り過ぎると「自分が吠えたからアイツは逃げていったんだ」と思い込む。その程度の認知能力しか持てなくなってしまった人がいるんじゃないか――という意味だ。
 スマートフォンでそれが引き起こされるかもしれない……と考えると、ジョブズはとんでもない悪魔のツールを生み出してしまったなぁ……とか考えてしまう。

 『ドント・ルック・アップ』には、スマートフォンを開発する会社BASHのCEO、ピーター・イッシャーウェルという男が登場してくる。おそらく超インテリだ。私たちよりはるかに“頭のいい人”なのだろう。
 しかし“頭が良い”と“現実がわかっている”は別問題の話だ。頭の良さと認知能力の高さは別問題なのだ。
 ピーター・イッシャーウェルが映画後半に向けて、あるトンデモ秘策を提案し始める。ピーターは「“理論上”これで行けるはずだ」と言う。ランドール博士は「研究者による査読は受けたのか?」と問うが、受けていないという。「理論上これで行けるはずだから、学者の意見は必要ない」……と。
 頭が良いと、現実がわかっているかどうかは別問題なのだ。現代人は「頭が良い」だけの人ばかり称揚する。肩書きだけは立派だけど、すっからかんのコメントばかりする人を、テレビはありがたがって話を聞こうとする。テレビ映りを気にして、学者の意見より「おもしろいコメントをする人」を重視する。映画はそういった人達について行ったらどんな落とし穴があるかまで描いている。まさに「度しがたい」結末だが、あり得そうなのがなんとも怖い。

 『ドント・ルック・アップ』を一言でまとめると、コメディ映画というより「風刺映画」。『26世紀青年』を参考にしたというが、確かになるほどと思わせる。映画中で起きている出来事はどこまでも馬鹿馬鹿しいが、しかし笑えない。笑ったとしても、その後で背筋がゾクッとする。私たちがはまるかもしれない落とし穴を、この映画を描いている。
 もしも本当にオウムアムアのような「隕石接近」という事態が起きた時は、まずこの映画を観て、この映画で描いた落とし穴にはまらぬよう、注意を呼びかけたい。


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