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7月31日 月末あとがたり

 本当は今月まで続いた書籍制作が終わり、しかもそれが大したお金にもならなかった、次の創作の糧どころか生活費にすらならなかった、ということが発覚した時点で働きに出なくてはならなかったのだけど、なんとなくその後もズルズルとこうやってパソコン前でキーボードを打ち続けていて……。
 書籍制作最後の追い込みで、2ヶ月ほど書くことや書いたもののチェックに忙殺している間、机の上には大量の本の山ができあがっていて、これを整理しなくちゃな……というのは理由としてあったのだけど……。
 本音を言うと、「働きたくないなぁ……」というのが強くて。だって私、工場での仕事、大嫌いなんだもの。あれをやりたくないから、次こそは作家として喰っていけるようになりたいと思っていたのけど、思い届かず。
 働きに行きたくないな……。もう通帳にはほとんどお金も残ってないし、食うものもないから働きに行かなくちゃいけないんだけど、こうやって何かを書くことを続けたいという気持ちで、ズルズルときてしまって……。
 どっかでライターの仕事にありつければいいんだけど、なかなかそのチャンスがない。あるとき、色んな所に履歴書送ったけど、全部NG……。要するに「お前はいらない人材だ」ってことだね。これが現実だから、哀しいよね。

 工場仕事行かなくちゃいけないけど、行きたくない……今月後半はそういう思いで書き散らしたものになってしまった。

 そういうわけで、映画を一杯視聴しました。だいたいのものは『映画感想』として独立した記事に挙げたけれど、そこまでじゃない……という作品も視聴したので、そちらの感想文はここで「簡単感想」として書きます。

ファウンダー ハンバーガー帝国の秘密

ファウンダー マクドナルド帝国の秘密

 何気なく視聴した『ファウンダー ハンバーガー帝国の秘密』。これが面白かった。1954年、アメリカでほんの1店舗だけしかなかったマクドナルドが、いかにして世界を制したのか……その始まりの物語を描いた作品。こういった「実話の映画化」は多くの脚色があるものだけど、この作品の場合はほぼ本当のことで作られているそうだ。
 さて、1950年代のアメリカのレストラン業界、特にドライブインのサービスは悪かった。注文してから届くまでやたらと時間はかかるし、間違えられるし、忘れられるし、ドライブイン周辺はゴミだらけで不良だらけ。主人公レイ・クロックはそんなドライブインを回って、ミルクシェイク用ミキサーの訪問販売をしているセールスマンだった。
 そんな最中、奇跡のような店に遭遇する。その店は注文した直後に商品が届き、店の周りは清潔、しかも家族が安心して食事ができる店だった。それこそがマクドナルド。リチャード&モーリス・マクドナルドが経営する店だった。

 レイ・クロックはぜひマクドナルド兄弟と一緒に仕事がしたいと思うようになり、全米中にマクドナルドチェーン店を拡大しようとする……。
 前半1時間はいくつかの困難を乗り越えつつ、マクドナルドがじわじわと店舗を増やし、成功していくまでの道のりを描いていく。
 さて、後半1時間。こういった映画の定石は「いかにして転落していくか」だが、これがどのように描かれていくのか。

 着実にチェーン店が増えていくマクドナルドだが、しかし運営資金が思ったほど貯まらない。店を作れば作るほどに赤字が積み上がっていった。ついにレイ・クロックの事務所も借金まみれ、銀行もお金を貸してくれなくなってしまった。
 そこにある男が現れるが、実は、この男こそが悪魔。「レストラン経営じゃなくて不動産経営っすよ~」と囁きかけるが、これが悪魔の囁き。この囁きに乗った後、レイ・クロックはマクドナルド兄弟に電話するが、目元にやたらと影が落ちている。レイも精神的な転落をしたからだ。不動産経営を始めてから、マクドナルドは収益を安定させられるが、レイは精神的な“何か”を喪ってしまう。

 もう一人、レイ・クロックに悪魔の囁きをするのが、粉状ミルクシェイクを提案する金髪の女。レイ・クロックがマクドナルドを拡大したかったのは、自分が訪問販売で苦労していたシェイク用ミキサーを活用できるからだったが、粉状ミルクシェイクなんぞ導入したら、本末転倒。でも、ミルクシェイクを作るための原料となっているアイス冷蔵庫はやたらと電気代がかかる。これが主な赤字の理由になっていた。
 受け入れたら赤字を解消できる。受け入れなかったら赤字……。レイ・クロックはこれを受け入れてしまう。ついでに、ずっとついてきてくれて味方になってくれていた妻と離婚して、新しい女に乗り換えてしまう。成功のためには女を乗り換える……『島耕作』理論だ。
 不動産経営と粉状ミルクの導入。受け入れたらマクドナルド店を増やしたいと思った初期衝動的な感動を失う。「レストラン経営をしたい」はずだったのに「不動産ビジネス」に変わってしまったし、シェイク用ミキサーも不要になってしまった。でも受け入れなかったら赤字まみれでチェーン店計画は終了する……。さて、どちらを選択する? レイ・クロックは成功者になるために、悪魔の道を選択してしまう。

 これは「成功への代償」なんだよね。マクドナルド兄弟は自分が考案したシステムが世界中に広がったけれど、自分たちは最終的にハンバーガーショップ自体できなくなってしまう。レイ・クロックも作品中では陽気に描かれているので勘違いしやすいが、自身も人間性を犠牲にしてしまっている。確かに大成功したけれども、さて……という感じ。マクドナルドは世界中に展開し、アメリカのレストラン事情は(マクドナルドの影響で)圧倒的良くなったけども……。成功を引き換えに、精神的な「転落」が描かれた作品。大成功するためには何か“引き換え”が必要で、マクドナルド兄弟も、100万ドルという“引き換え”を得てしまった(マクドナルド兄弟も自分の店の全国チェーン店化は夢だったが、その夢実現のために、「自分は経営できなくなる」という“引き換え”があった)。一見、最後までポジティブな描かれ方で終わっているが、実はビターな後味の映画。
 最後のシーン、マクドナルド兄弟の店の目の前に、レイ・クロックがマクドナルド店を開店している様子に「ゲッ」となる。自らが「創業者」になるためには、“父親殺し”もいとわない。このなりふり構わなくなっていくところに、人間性の堕ちるところが見えてくる。でも「成功者になること」ってこういうことなんだよな……という複雑さを描いた作品。

座頭市について 座頭市の英雄性とロビン・フッド

座頭市と用心棒 (6)

 『座頭市』シリーズを初代から見始めて、点々と飛び石で5本/26作目までを見たのだけど、まず、とにかくも楽しかった。作品が面白かったという以上に、座頭市という人物観に惚れてしまった。座頭市/勝新太郎という人物が好きになった。作品はというと『血煙り街道』は本当に傑作だと思ったけど、あとの作品はそこまでじゃなかった。でも作品は別にして、座頭市という人物が好きになってしまった。暇な時間は、なんとなく座頭市のことを考えてしまう。ほとんど恋みたいな気持ちになってしまった。時間とお金に余裕があれば、シリーズはまだまだ一杯あるのだからもっと見たいのだけど、それが許されるような時じゃないのが惜しい。

 『座頭市』シリーズを視聴し続けて考えていたことは「ヒロイズム」について。「ヒロイズム」とはなんであるのか、『座頭市』シリーズが語っているように感じられた。
 『座頭市』シリーズにありがちなパターンは、その土地を牛耳っているヤクザがいて、人々が困っていて、それを助けるために座頭市が立ち向かう。人々はヤクザに対抗する力はまったく持ち得ないし、現実の生活に縛られて行動を起こせない。そこで座頭市は無敵の剣士であるし、それに流れ者だからそこで因縁をひろっても立ち去ってしまえばいい。
 座頭市の大立ち回りによって土地が抱えている問題は解決されるのだが、しかし人殺しは人殺しだ。座頭市は“凶状持ち”になって、その土地を去って行くことになる。人々は感謝するが、凶状持ちをかくまったということになると、自分も縛り首になってしまうから、感謝を告げることもできない。村に逗留する過程で、深く思いを寄せることになる人も現れる。でも座頭市は自分が凶状持ちだから、わざわざその情を断ち切って、一人孤独に土地を去って行く。
 だから座頭市は、真に平和を享受したことは一度もない。一度も真に温かな情を受けたことがもない。いつもヤクザがはびこる修羅の只中へ入っていき、ただ迷い込むだけではなくその奥まで潜り込んで戦いを挑み、その後、一人寂しく去って行く。本当はあの後、平和と情の世界があるはずなのに、座頭市は一人だけその成果を受け入れることができない。
 私はその最後のシーン、座頭市の去って行く姿にこそ、ヒロイズムが際立っていくように感じられた。昔から「ヒーローは孤独であるべき」と言われているのだが、その理由が『座頭市』を観た瞬間、ハッと理解した。なぜ私が「座頭市のヒロイズムが際立っていく」ように感じられたのかというと、誰からも恩も情も受けずに立ち去るからだ。座頭市は修羅しか知らない。いつもその後ろ姿で終わるのだが、その背中になんともいえない気持ちになるのは、その背中に背負ったのは“業”だけだとわかってくるからだ。だからあの背中が小さく、寂しげに見える。言い方を変えると、「一番可哀想な人」なのだ。
 シリーズを通じてその後ろ姿を見続けると、座頭市への気持ちは次第に深くなっていく。誰も触れることのないあの背中を、人々の真の温もりを拒否してきた背中を、抱きしめたくなってしまう。だがそれを拒否し続けるから、座頭市はヒーローなのだ。
 ヒーローが孤独であるべきなのは、ヒーローが一番深い業を背負ってしまうからだった。座頭市ほど、ヒーローの姿を体現している人物はそうそういないんじゃないだろうか。

 ここでちょっとテーマを変えてみてみよう。そもそもどうしてコミュニティは混乱してしまうのか。流れ者のヤクザに支配されてしまうのか。その根底にあるものを考えてみよう。
 おそらく、お話は食糧問題から来ている。私たちがどうして平和的に暮らすことができるかというと充分な食料を得ているからだ。食料を確保できないかも知れない……という状況に陥ると人は不安や緊張状態になり、この不安は人間関係にも不和をもたらしてしまう。これがコミュニティ全体に拡大すると、不穏な社会環境が構築される要因となる。
 『座頭市と用心棒』を例に見てみると、作中の舞台となっている村は、3年前は桃源郷のような平穏さを持っていた。なぜか? 充分な食料を確保できていたから、人々に不安はなく、お互いを穏やかな気持ちで接することができたし、旅人の座頭市に対しても温かく迎えることができた。
 しかし『座頭市と用心棒』の村の平和は、たった1年の不作によっていとも簡単に崩壊する、危ういものでしかなかった。
 正しくは舞台となる村は食糧の確保ができていたのだが、周りの村々が貧困状態に陥り、かの村に食料の備蓄があることを聞いた人々が群がりやってきた。そこで村長は村を守るためにヤクザを雇い入れ、修羅が繰り広げられ、ヤクザ達はそのまま村に居座り、次はヤクザ達に食料が食い潰されていく問題を生み出してしまった。
 こういった話は中世だけのお話なのだろうか。いや、私たち世代でも実はそう変わっていない。私たちは相変わらず食料を確保できるか、という不安を深層心理に抱えている。私たち世代では、「雇用の問題」とか「賃金問題」といった言葉に変換されているが、そういった言葉の裏側を見ると、「仕事が得られるかわからない、充分な賃金を得られるかわからない。もしも仕事とお金が得られなければ食べていくことができない」という不安が隠れている。
 もしかしたらものすごいテクノロジーの発達によって、無限に食料を生産できる時代が来るかも知れない。が、現実的にはこれは不可能だ。なぜなら食料を得ることは、基本的には自然を破壊する行為だからだ。自然が提供できる食には限界量がある。私たちがうっかりこの限界量を超えて増えてしまうと、ただちに少ない食料を奪い合って骨肉の争いを始めることになる。
 1994年に起きた「ルワンダ虐殺」は、Wikipediaの解説を見ると、民族間の根深い対立の歴史が書かれている。あの解説が正しい。でも実はもう一つルワンダ虐殺を引き起こした要因が「食糧問題」だった。ルワンダではある時期から人口爆発が起き、自然が提供できる食の限界量を超えて、人が増えてしまっていた。すると慢性的に飢餓が広がるし、当然ながら仕事にありつけない人も出てきて、貧困の問題もこの上に重なってくる。そうした鬱憤は、次第に“民族間対立”というキーワードに置き換えられ、あるときこの鬱憤を解消するために大爆発が起きた。
(「ネット右翼」なるものがなぜ流行るのかというと、不安を抱えると人々は「政治」という大きなテーマを持ち出し、政府という大きな敵を立ち向かうことで不安解消のストーリーを内面世界に作り出すからだ)
 食の問題はそれくらいデリケートなお話だが、私たち日本人はその問題について、ほとんど認識すらできなくなってしまった。それは食料生産も、食料加工も、私たちの生活の圏外になっていて、食がどのように調達され、最終的に店に並び食卓に並ぶのか、何一つ知らないし、考えることもしなくなったからだ。ほとんどの現代人は「いや、それ関係ねーし」と鼻で笑うことだろう。お金さえ出せば、いくらでも食料が手に入ると思い込んでいるからだ。自分たちの社会にいつか食糧危機が来るかも知れない、というリアリティを感じていないからだ。
 リアリティを感じていないけど、しかし「食べて行けるか」という不安な気持ちだけが漠然とある……というのが現代人の深層心理だ。社会があまりにも複雑すぎるから、自分の不安がどこから来ているのかも特定できない。ただ自分の周囲を娯楽で埋め尽くして、その不安から遠ざけようとしている……というのが私たちが陥っている病だ。
 『座頭市』が描かれている時代は、食糧問題が率直に人々の生活に結びついている時代である。『座頭市と用心棒』は食糧問題が切っ掛けのお話として描かれているし、『笠間の血祭り』も食糧問題が前景にあって、食を人質に村の山が奪われていくというストーリーが展開した。
 『笠間の血祭り』での村人達が、どうして山が勝手に開拓されていくことに怒ったかというと、単に「古くあったから……」とか「なんとなくの仕来りだから……」という宗教観やそれがもたらす情緒の話がすべてではない。自然と食料はトレードオフの関係にあるから、山を喪うということは、もしもの時の「食糧確保の余裕を喪う」という意味でもある。もしも人口が増えても、芳醇な自然があれば、そこを少しずつ開拓して、食糧問題を解決させることができる。その山が一気に破壊されると、村はそのセーフティをまるごと喪うことになる。だから村人達は怒って抗議する。
 また森が良質な地下水を溜めて、巡り巡って村人に水を提供している、という事情もある。山を喪うと大雨の後に地滑りの危険も生じさせるだろう。森を一つ喪うことの危険性は、当時の村人達はリアルに感じていたのだ。現代人は意味もわかってないくせに「自然が大事」なんて唱えるが、中世の時代では森の喪失は食の喪失に繋がる切実な問題だった。
 ちなみにどうして私たち日本人がこうも食糧問題に対する不安を慢性的に抱える民族観になり、こうした物語を大量に生んだのか。それは米を主食としてしまったからだ。米はもともと南方の作物で、本州に入って北に行くほどに育成が難しくなっていく。でも米を主食とし、米をベースに文化観や精神を作り上げてしまった。こうして私たち日本人は、永久に食料の苦しみを抱えることになる。
 食料が充分ではないとわかると、コミュニティの均衡はやがて崩れて、人々は不安に駆られて殺伐とするようになるし、大きな問題が起きると、それを解決するためにより大きな暴力装置を村に招き入れなくてはならなくなる。それが『七人の侍』であればいいが、たかが小さな村を守るために侍が集まるなんて、あの物語の中で描かれたように異例の話だ。侍はどうせなら権力を持った主君に仕えたいのであって、農民なんぞに仕えたくない。すると農民が頼れるのは、ヤクザということになる。
 ヤクザが平和的に暴力の問題を解決し、後腐れなく去って行ってくれるか、というとそんなことはない。ヤクザは脅したかることが仕事だ。脅す相手が去って消えれば、今度は依頼主を脅す。権威の座に居座り、その後の食料を要求する。一度招き入れたが最後、村はヤクザに牛耳られることになる。食糧問題が解決した後もだ。ヤクザは村を食い潰すまで居座るだろう。なぜならヤクザは食料生産の労働から外された、“余剰労働者”から成り立っているからだ。向き合う暴力がなければ、ただ消費するだけである。
 そうした危機に現れるヒーローが座頭市である。座頭市は村に居着いてしまった病巣のごときヤクザを蹴散らし、浄化する存在だ。座頭市は調停者、スタビライザー的な存在であるといえる。座頭市の英雄性は、古き時代の日本の農村が抱えがちだった病を浄化し、立ち直らせてくれる、そういう『ロビンフット』的な願望から生まれたキャラクターなのかも知れない。

 座頭市の活躍によって、村は救われ、ヤクザがやってくる以前の平和な様子に戻されていく。しかし不条理なことに、座頭市だけは「罪人」ということになる。やっぱり殺人は殺人だからだ。私たちの司法制度や一般的倫理感では、どんな理由があっても殺人は許されない。どんな事情があれ、座頭市は凶状持ち・罪人でしかない。
 でも私には、座頭市が土地土地に染みついてしまった怨念や祟りを、一人で浄化して回って、その呪いを背負って去っているように見えてしまう。そういうイメージを頭に浮かべたとき、それこそ「ヒロイズム」だということに気付かされる。
 そう、ヒーローとは呪われた者のことだったのだ。
 そんな座頭市が盲目、つまり“めくら”という、あの時代において差別の対象とされた人……ということは偶然だと思うが、どこか符合しているように感じられてしまう。座頭市は最初から負の世界にいるからこそ、呪いを背負えるのだ……と。
 ヒーローとは呪われ、人々から差別を受ける者で、自分から進んで呪われに行く勇気を持っている者、あるいは呪いを背負うだけの力を持っている者……。それでいて、正義と良心、つまり人情を決して喪わない。そういう者こそ、ヒーローに相応しい。
 『座頭市』というシリーズを通して感じられたのは、そういう「ヒーローとはなんであるか」という問いに感じられた。

その他映画こぼれ話。

ビルマの竪琴 1956 (52)a

 映画『ビルマの竪琴』に出演していた井上隊長。
 これ、誰だかわかる?
 答えはこの方↓↓

三國連太郎

 私も「三國連太郎」さんといえば、「お爺ちゃん」のイメージだったから、若い姿を見て驚いた。というか、しばらくあのお爺ちゃんの三國連太郎さんだと思わなかった。若い頃はイケメンだったんだね……。三國連太郎さんだと思ってみると、ああ喋り癖が変わってないや。お爺ちゃんになった姿も素敵だね。

 『ビルマの竪琴』の映画感想文はたぶん来月掲載します。感想文自体はもう書き上がっています。

 お次は1976年版『犬神家の一族』。
 宿から双眼鏡で湖を見ていた金田一耕助は、事件を目撃して、裸足で飛び出す……。

犬神家の一族 1976 (28)

 でも次のカットをよーく見てみると……。

犬神家の一族 1976 (29)

 足が白くなっているのがわかるかな? 足袋を履いてるんだ。
 これはビデオの画質が悪かった時代は気付かなかった要素だね。今みたいなHD画質の時だが来るとは想定できなかったんだろう。
 カットによって裸足になったり、足袋になったり……。こういうのも、俳優の安全確保のため。

 もう一つ、『犬神家の一族』からこの画像。

犬神家の一族 1976 (72)

 あるシーンで金田一の目元クローズアップでの振り向きのショットが挿入される。
 最初に見たときは、特に気にせずスルーしたのだけど……。
 あ! これってあれだ!

絶望先生 167

 『さよなら絶望先生』の決め台詞「絶望した!」というシーンの直前に挿入されるあのカットだ!
 あれって『犬神家の一族』が元ネタだったんだ……。10年越しにやっと気付いたよ。
 そういえば新房昭之監督は市川崑が好きで、『絶望先生』の中で『犬神家の一族』パロディ回やったことがあった。演出の元ネタがあったんだね……。
 まさか10年前のアニメの元ネタに、今さら行き着くとは思わなかった。

 『犬神家の一族』感想文のブログ記事は、来月掲載。こちらも感想文自体は書き上がってるよ。


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