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3月30日 アメリカ人の笑いは露悪的~「笑われている奴は黙っていろ」の世界。

 えー…今回しようとしているお話は、ちゃんと「証拠画像」を持ってきた上で話をしたいのだけど、ネットで検索してみたところ、そのどれも視聴にお金がかかるようなので、私の記憶から、「確かああいった映像があったはず」という話を手がかりに進めていきます。
 間違っているところとかありそうだけど、心の中で突っ込んでもらえれば幸いです。

 私の記憶では、あの映像を見たのはNHK制作『映像の世紀』だったと思うのだけど、おそらく20世紀初頭頃の映像で、「アメリカで当時人気」だったという「漫才」の様子が記録されていた。
 その内容なのだけど、黒人が白人にひたすら殴られ続ける……というものだった。黒人は白人に何度も殴られても立ち上がり、自ら進んで殴られに行き、大袈裟に転がる……というこれをひたすら繰り返す。「台詞の掛け合い」とか特にそういうものもないらしい。ただひたすら黒人が殴られ、大袈裟に転び、それでも自分から殴られに行く姿が面白い、と当時の人々は大笑いだったそうだ。
 私はこの映像を見て、ドン引きだった。いったいどこに面白要素があるんだ? ただの暴力映像じゃないか。今の感覚に照らし合わせて見ると、「白人がひたすら黒人を殴る」なんて、ただの人種差別動画でしかない。
 ところが当時のアメリカ人はこれが面白いと大受けだった。
 この「ひたすら殴られていた黒人」は、相方の白人から毎日お金をもらっていたそうだ。お金が欲しかったから、黒人は毎日白人に殴られにいっていた……そうだ。

 次に、確かディズニー映画『シュガーラッシュ』という作品で見たのだと記憶しているのだけど(ちゃんと確認したかったけれど、そのお金もないので記憶だけで話をします)、ある場面で主人公達は得体の知れない植物の姿をした怪物に絡みつかれ、動けなくなってしまった。どうやら「こいつらを笑わせられたら逃れられるらしいぞ」ということになって、何を始めたかというと、「ひたすら一方を殴り続ける」という行為だった。
(『シュガーラッシュ』には「ゲームはいつからこんなに暴力的になったの?」という台詞があるが、欧米のゲームは最初から暴力的だったよ)
 私はこのシーンを見ていてもドン引きだった。ただの暴力じゃないか。どこに笑える要素があるんだ?
 でもシーンは殴られた方がふにゃふにゃになって、頭の上に星を浮かべて、その様子を見てみんなが笑っている。「殴られている姿が滑稽」……私の頭の中に浮かんだのは、『映像の世紀』で見た、「黒人がひたすら白人に殴られに行く」あの動画だった。

 ディズニーが『白雪姫』(1937)という傑作に行き当たるまで、モノクロの短編映画をたくさん作っていたのだけど、その当時の映像を見ると、かなり暴力的だった。特に意味もなく、殴る。殴り合いが始まる。その殴り合いで笑いを取る。そういう作品が多かった(ミッキーマウスも色んなものを殴っていた)。そういうアニメが、当時の潮流だった。そういう意味で、『白雪姫』できちんとした起承転結を持った「物語」を獲得したことは、アニメ文化史的にとっても大きな転機だった。

 こういうところからわかるように、アメリカ、あるいは欧米の“笑い”というのは実はかなり暴力的、露悪的なところが多い。一方が一方的に攻撃をする。特に体格のいい人や、権威的な人が何か失敗をしたり、転んだりすると、多くの人は「ざまーみろ」というシャーデンフロイデ的な笑いを浮かべる。「黒人が白人にひたすら殴られる」動画のなにが面白いのか、というと、「体格のいい黒人が、白人の優男に一方的に殴られ、滑稽に倒れる」姿が面白かったのだ。
 そういうところは日本でもわりとあって、例えば『ドリフターズ』の笑いは、基本的にはいかりや長介という、長身でいつも威張り散らしている男が、他のメンバーにやられて……それで笑いを取るというパターンだった。
 アニメの『トムとジェリー』にもこういう傾向はあって、普段は「狩るもの」である猫がネズミに毎回ひどい目に遭う。ただそれだけで笑いを取っている。これも「黒人が白人にひたすら殴られる」漫才とそう変わらない。

 「笑い」というのはそもそも本質的に「攻撃」に基づくものがあって、「どうして人は笑うのか」というと、その対象を攻撃したいためだ。「笑い」がなにか良いもののように世間では考えられているが、本質から見ると「笑い」とは「暴力」のことである。
 イジメの時、「イジメをしている側」というのはいつも笑っている。なぜ笑っているのか、というと、その対象を攻撃している最中だからだ。笑って、見下すことによって、「お前より上だぞ」という立場を誇示できるから笑っている。どんなものでも「笑い」にはそういう「攻撃」のニュアンスを含むから、だから人は笑う時、気持ちがスッとするのである。
 それで「笑う側」というものは、「笑われる側」に対して、「反抗するなよ」というサインを送る。これが常態化したものが「イジメ」となる。笑える側というのは「コミュニティ上位」の証だ。笑う側は自身がコミュニティの上位という立場を決して崩したくないから、笑われる側に向かって「今は楽しい空気なんだから、それを崩すなよ」というサインを暗黙ながら送り、それを崩す奴がいると逆上する。

 前にも書いたように、「イジり」と「イジメ」の違いは、「イジることによってその人の個性を認めること」にある。正しい「イジり」のやり方は、それで「笑いもの」にするのではなく、それを「個性」として認めてあげること。そうすればイジられるほうも楽しい、周りも楽しい……となる。
 これが攻撃のための笑いの要素が加わったり、この状態が固定化されると「イジメ」になる。これがダメな状態。
 その心得を理解していない人が、「イジり」と「イジメ」を混同する。混同している人が「イジりだ」と言いつつ「イジメ」の関係を強要する。混同した人々が、「イジり」も「イジメ」もいけません……と言ってしまうようになる。

 日本の笑い、欧米の笑いの差についてだけど、日本の笑いは「自ら笑われる」というところにある。ドリフターズのいかりや長介は、自身で作家の書いた台本を厳しくチェックし、最終的に自分が笑われるように仕向けていた。
 日本の漫才にしてもコントにしても、基本的には権威あるやつ、体格のいい奴、威張っている奴が最終的に笑われる立場になる。そういうのは世界中のどこへ行っても普遍的なものなのだろう。ただ日本の場合は、言葉のやり取りや立場のやりとりで笑いを取っていく。
 言葉のやり取りとは「緊張」と「緩和」の繰り返し。まず「ボケ」の立場にある人がおかしなことを言って、それを「突っ込み」の人が常識的な形に引っ張り戻す。その常識感のゆさぶりと、揺さぶりのリズムで笑いを取る。これは本当にテクニックに基づくものだ。

 では欧米の笑いはどうだろうか? 私は欧米の漫才やコントはあまりよく知らないのだけど……自身が「笑われる対象」になっていくコメディアンって……まあいるんだろうけど。日本人がやっているような「緊張」と「緩和」のテクニックで笑わせるようなスタイルなんかはあるのだろうか? スタンダップコメディというのを見たことはあるが、「自分が笑われる」立場になるのではなく、「他の誰かを笑いものにする」というパターンだったように思える(これが全てではないだろうが)。
 前から(映画なんかで見ていて)欧米の笑いで引っ掛かっているのは、「笑われる対象」に対して、「お前は反抗するなよ」「この空気を壊すなよ」という圧が日本のものよりも強いような気がする。「黒人がひたすら白人に殴られる」動画のように、殴られる黒人に対して、「お前は反抗するなよ」という圧がより強いような感じ。日本は最近では「イジり」に対しても厳しい目が向けられているが、欧米では「いじられる対象」に対し、「反抗するなよ」という圧を送っているのではないか。たぶん「イジり問題」そのものが欧米にはないんじゃないか、と。

 欧米で問題となっている「ブラック労働」というものがある。日本にももちろんブラック労働はあるのだが、アメリカでのブラック労働はちょっと種類が違うというか、たちが悪い。「男性社員が女性社員に対してセックスを迫る」というものが平然とある。しかも職場で就業時間中に。職場のセクハラ問題じゃなくて、それはレイプ問題だ。そういうものが企業によっては常態化しちゃっているところもあるそうだ。
 ゲームメーカーとして有名なActivision Blizzardは長らく社内でそういう状態が「文化」として定着し、女性社員が不当な立場に置かれた。これが解決不能なゴタゴタに陥って、Activision Blizzardで発表が予定されていた多くのタイトルが、現在この問題によってキャンセルになっている。
 で、この問題に対しても、私はちらっと考えている。おそらく女性社員にレイプしていた男性社員は「笑っていた」のではないか。そして笑っている対象に向かって、「反抗するなよ」「この楽しい空気を壊すなよ」という圧を送っていたんじゃないか、と。

 しかし、実はアメリカ人は、こういう「笑われる対象」になっている人から反撃を受けることを猛烈に恐れている。
 何を証拠に話すのか、というと映画『ジョーカー』の大ヒット。
 『ジョーカー』がどんな映画なのかというと、主人公はコメディアンで人を笑わせたいが、しかしあまりにも技術がなさすぎて、「笑われる存在」にしかなれなかった……という内容。
 アメリカの社会で「笑われる存在」というのは、コミニティの隅っこに追い込まれてしまう。「お前らは引っ込んでろよ」「お前らは何もするな、何も反抗するな」……。アメリカはそういうコミュニティの輪に入れない者を徹底的に見下す。
 アメリカは「個人主義」の社会……とそう信じている人は多かろうと思うが、実体は「パーティ文化」。「相手の個性を認めてくれる」なんていう牧歌的な世界観ではない。厳しいカースト制が暗黙のうちに敷かれ、その中にいられない奴は隅っこにいろ、お前らは笑われていろ……そういう社会がアメリカだ。
 そういうアーサー(『ジョーカー』の主人公)の立場のような人が、実はアメリカには一杯一杯いて、そういう人達が共感して『ジョーカー』は大ヒットとなった。普段は見向きもされない、サイレントマジョリティ達だ。
 アメリカ人はそういう人々に対し、潜在的に怯えている。「いつかそういう“笑われる奴”が俺たちに反抗してくるんじゃないか?」と。ある時突然マシンガンを持って学校にやって来て、乱射するんじゃないか……。
 映画『ジョーカー』はまさしくそういう映画だった。“笑わせたい”と思っていたのに“笑われるだけ”の男。まともに友達も作れないようなみじめで情けない男。そういう男がある時、同じようにカースト底辺になっていた奴らの“カリスマ“に祭り上げられてしまう。「底辺に陥っているやつら」というのは実は少数派ではなく、とんでもない数がいる。そんなやつらが一斉に反抗してきたら……。
 アメリカ人はこの映画を観て「あ、やばい……」と頭の片隅で思ったんだ(特にカースト上位にいる連中が)。「この映画に触発されて、銃乱射しちゃうやつが出ちゃうんじゃないか」と。普段アーサーのような立場に置かれている奴が、目覚めるんじゃないか……。
 それで「こんな映画を全米で公開すべきじゃない」という意見が出たし、「映画館に警察を置いて警備すべきだ」、という意見も出た。どうしてそんな意見が出たのかというと、頭の片隅でいつもちらっと、あの「いつも笑われるだけのコミュニティ最下層のあいつが銃を持って反抗するんじゃないか」という恐れを持っているからだ。いや、本当は怖いからこそ、リア充達は下層民達に「反抗するなよ」という精神的圧を送り続けるのだ。普段から自分のやっていることへの後ろめたさがちらっとあるから、それをまざまざと描いた『ジョーカー』という映画を封印しようとする。
 まあ結局、『ジョーカー』上映中に銃乱射事件は起きなかったんだけど。

 普段からそういう不安を持っているから、アメリカ人、あるいは欧米人は、普段から「笑われる対象」に対して、「お前は反抗するなよ」という圧を加える。「イジられても文句を言うな」と。

 と、ここまで来て何の話をしたいかというと、アカデミー賞授賞式でウィル・スミスがクリス・ロックを殴打した事件。
 私のこの事件に対する印象は……というとだいたいみんなと一緒。そもそも「病気」を揶揄して笑いを取ろうとしていること自体がアウト中のアウト。そんなの、ダメに決まってるだろ。それに対して殴ったウィル・スミスの行動には正当性がある。もし殴らなかったら、クリス・ロックは何がダメだったか理解しなかっただろう。反省を促すためには、殴るくらいがちょうどいい。あの場面で殴らなかったら「妻が笑いものにされているのに何もしなかった男」という印象の方が残る。ウィル・スミスに対しては「よくやった!」という感想しかない。

 ところが、アカデミー会員の印象は違っていた。クリス・ロックの側の問題には一切触れず、ウィル・スミスのほうのみを糾弾した。アメリカの世論もウィル・スミスに批判的だ。
 なぜ??
 そもそも、クリス・ロックが病気を揶揄して笑いを取った時、会場のみんなが笑っていた。
 これも「ちょっと待て」だ。それ、ぜんぜん笑えないぞ。日本でそんなネタをやったら、会場は一気に冷めるし、その時点で言ったほうが大炎上のはずだ。身体的な欠損や病気を揶揄するのは、「イジり」の中でも最悪のやつだ。どうやらアメリカでは「人の病気を揶揄して笑いを取る」ことはタブーではないらしい。もしかしたら「言葉の暴力」という概念もないのかもしれない。
 クリス・ロックのあの発言の時、会場のみんなが笑っていた。つまり、それがアメリカの文化……ということだ。「黒人がひたすら白人に殴られに行く」あれと一緒。あそこから直接の暴力を排除しただけ。
 で、笑われる対象に対し、「お前は反抗するなよ」「この空気を壊すなよ」という圧を加える。
 その後、ウィル・スミスだけが問題としてあげられた。なぜかというと、「行動」に出たから。アメリカ人は頭の片隅で「反逆する奴が出るんじゃないか」という恐れを抱いている。その恐れている行動に出た奴がいた。「怖い」「排除したい」……まさかのアカデミー会員がこういう心理に捕らわれてしまった。アカデミー会員の理性のなさが露呈した瞬間だった。

 というここまでの事件の全体を見て、「アメリカは嫌な社会だなぁ」としみじみ感じた。アメリカ人は銃乱射事件が起きても、自身が普段からやっていること、に対して自覚的にはなれない国民性なんだ。普段から自分が何をやっているのか、自分が何に対して恐れているのか……その結果として、どうして自分たちがそれを考えて行動してしまったのか……何も自覚がない国民性なんだ。
 うん、日本人にもそういうところ、一杯あるけどね。自分で問題の種をまいて、その自覚のない人。自分で種をまいていて、最終的に問題を起こしたという人達を糾弾する。「無自覚の自作自演」。こういう場合は、「香具師」と言うべきかな。日本人でも一杯いる。
 でもアメリカや欧米でやっていることは、ちょっと日本人の目から見て、度を超して露悪的だな、としか感じられない。身体的な欠損や病気を揶揄しても、問題にならない社会。「お前は笑われてろ」「笑われるようなやつは黙っていろ」の社会。悪いのは「銃乱射事件を起こした奴」であって、そうやって追い込んだ奴らは無罪放免(今回の場合、クリス・ロックは無罪放免になった)。それどころか、「なぜか?」という追求すらもしない。そもそも考えることも放棄する。アカデミー賞の権威であっても、そういう「気分」に流されてしまった。
 日本人にもそういうところあるけど、アメリカ人ほどバカじゃないよ……。

 アメリカ人ってそういう人達なんだ……とこの一件で見えてしまった。
 なーんかヤな事件。


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