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映画感想 劇場版魔法少女まどか☆マギカ&劇場版SIROBAKO

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〔新編〕叛逆の物語

 Amazonprime会員無料になっていたので視聴。私は劇場で観て以来だから、この映画を観るのも10年ぶりになるのか……。時が流れるのは早い。あの当時は『魔法少女まどか☆マギカ』大ヒットで、しかし劇場の数も限られていたので、とんでもない人数で殺到していて……。当日劇場に行っても、その日のチケットが買えないくらいだった。劇場の予約が数日分先まで全部埋まってて、行っても入れないくらいだった。
 私はあの当時、劇場のサイトを細かくチェックして、「今日は無理っぽいな……」「次の週なら行けるか」みたいに行くタイミングを考えていた記憶がある。
 それで行ってみたものの、朝一番で劇場に行ったはずが、4時間後の席をなんとか手に入れた……という状態だった。お金もないのに4時間も暇潰すの大変だったなぁ……街中、ひたすら歩き回っていた。
 その時手に入れた劇場特典のフィルムは今でも大事に保管している。フィルムの内容は、テレビシリーズのオープニングシーンのファーストカット。鹿目まどかの後ろ姿が映っているフィルムだ。「大当たりカット」である。

 10年も経っていれば、内容忘れてるだろうなぁ……と見始めたのだけど、いやいやほとんど覚えていた。カット割りも覚えてるし、台詞も覚えてる。それだけ劇場のイメージは強烈だったんだな……と気付かされる。

 内容は冒頭からなぜか鹿目まどかが登場する。テレビシリーズで鹿目まどかは「神」あるいは「概念」の存在になったはずなのに? 最初に登場する魔法少女が暁美ほむらや美樹さやかや巴マミでもなく、鹿目まどか。ここでテレビシリーズを見た観客を驚かそうと狙って演出されていて、これは非常に上手くいっている。物語の核である暁美ほむらはあえて少し遅れて登場させる……と物語の核をぼやかせる作りになっている。
 しかし実は暁美ほむらは最初のシーンから背後で監視していて……ということが後々わかってくる。最初に登場するのは鹿目まどかだけど、実は最初から暁美ほむら視点で進行していたのだ。

 劇場版の鹿目まどかだけど……めちゃくちゃに可愛い。とんでもなく可愛い。見ていると鼻水とヨダレが出るくらいの可愛さ。テレビシリーズの時はこんなに可愛くなかったぞ……というくらいに可愛い。「虚構世界における理想の少女」像というものを達成している。嘘くさいまでに可愛い。いや、いっそ嘘くさく感じて欲しい……というくらいの勢いで、鹿目まどかのキャラ像を作り上げている。
 どうして鹿目まどかがあそこま可愛く、胡散臭いまでに可愛く描かれたのか……というと、あの世界観が全部暁美ほむらの夢、あるいは願望だから。暁美ほむらが理想としている鹿目まどか像が描かれている。あそこに描かれる鹿目まどかはリアルな姿ですらなく、「こうあってほしい」という妄想の産物。
 私の考えだが、「作り手の欲求」と「作品のテーマ」が合致した時、それはどんなものであっても良作になる。“どんなもの”というのは、どう考えても下らないテーマであっても、ドラマ性に欠ける三流シナリオであっても、作り手の熱とテーマ的方向性さえ一致していれば絶対に良いものになる。そういうとき、テーマとかシナリオといった、物語創作の基本と思われる要素に対する審査が不要になる。そういう作品は、作品にとっても作者にとっても幸福な1本となる。
 劇場版『魔法少女まどか☆マギカ』はただただ「女の子を可愛く描きたい」、閉鎖的で象徴的な少女性を描ききりたい、という作り手の欲求と作品テーマがうまく合致した。さらに後半の展開である、非情な少女の世界も描きたいという欲求を満たしているので、こちらもうまくいっている。色んなものがピタリとはまって、恐ろしいまでの映像が作り上げられてしまっている。
 しかももちろん劇場版『魔法少女まどか☆マギカ』はシナリオもがっちり作り込まれているので、どこから観ても隙のない傑作に仕上がっている。それが冒頭数分でわかるくらいの熱量を感じる。
 改めて観て「うわぁ……すげぇ」と思えてしまう。

 で、冒頭30分の描写はすべて暁美ほむらの妄想話なのだけど、その妄想の中では鹿目まどかは生存していて、美樹さやかや巴マミ、佐倉杏子といった、現実世界では対立し合っていた人達がみんな仲良くしていて、“ナイトメア”との戦いは、追い詰めた後楽しげにみんなで唄って踊って最後には浄化する……という平和的な内容になっている。
 ただただ可愛い。日曜の朝7時に放送できそうだ。
 ああ、これが暁美ほむらが願望として思い描いていた世界だったんだな……。結末を知った状態で観ると、あの楽しい描写もどこか哀しく感じられてしまう。

 面白いのは、各キャラクターたちに与えられた変身シーン。テレビシリーズ版にはなかったシーンだ。一見すると可愛らしく描かれているけれど、ちらちらとサブリミナル的に不気味なイメージが入り込んでくる。特に日常の姿から魔法少女になる瞬間、グロテスクなイメージが混じる。一見可愛らしく見えるが、その内奥に隠されているものがほのめかされるような作りになっている。
 そしてやっぱり鹿目まどかがめちゃくちゃに可愛い。変身シーンにも“愛すべき鹿目まどか”という暁美ほむらの視点が入り込んでいる。

 そんな夢一杯の魔法少女アニメは前半25分ほどで、その世界観は崩壊を始める。
 ここから主人公が暁美ほむらに変わり、その世界が何かおかしい、と気付き、探求の物語へ移り始める。間もなく美滝原の“外の世界”が存在しないことに気付き……。
 暁美ほむらは次第に記憶を取り戻していく。世界観がおかしいことに気付くし、“自分はこうではなかったはず”と気付く。美滝原の外を目指そうとしているうちに、次第に暁美ほむらの芝居も変わっていく。シーンの最後には三つ編みを解いて、私たちにとって“お馴染み”の暁美ほむらに変わっていく。
 楽しい夢一杯の、アニメみたいな魔法少女物語はここまで。

 暁美ほむらはその世界における謎を解明しようと、いろいろあがき出す。
 その途上で見えてくるのは、暁美ほむらの自殺願望。
 暁美ほむらの自殺願望が表れるのは、巴マミとの戦いの後、自分の頭を拳銃で撃ち抜こうとするシーン。表向きには巴マミを油断させるためだが、一方で「このまま本当に死んでしまいたい」という願望が現れてしまっている。
 間もなく自身こそが魔女だと気付き、魔女としての姿が現れるが、頭部がなく、断頭台に向かう姿で描かれる。「断頭台と魔女」の組み合わせは中世ヨーロッパの魔女狩りのイメージだが、これも自殺願望を表したもの。
 頭部がないのはいろんな示唆を含んでいるが、この作品では「自身と向き合えない状態」と読み取るべきかな。自分のことが嫌い、自分のことが許せない、自分なんて……という心理。そのネガティブなイメージが、自殺願望と結びついている。
 魔女となった暁美ほむらを止めるために、鹿目まどかや巴マミたちが戦うのだが、いや、ほっといてもあれは死んでたんじゃないか……という気もする。いろんな人や物を巻き添えにしてしまうけど。
 もう一つ現れてきたのは暁美ほむらの鹿目まどかに向ける変態性。鹿目まどかのレリーフにしがみついているイメージシーンがあるのだけど、ばっちり鹿目まどかの脚のラインをすーっと撫でている(その手つきもやっぱり変態的で……)。鹿目まどかへの想いに、性的なものが込められていることを示唆的に描いている。

(もしもの話をするよ。飽くまでも、“もしも”の話。もしも暁美ほむらがオナニーする時、なにをオカズにするのか……というと鹿目まどかは対象外になる。鹿目まどかは“美しく無垢な存在”でなければならないから。本当は鹿目まどかに対して猛烈な性欲を感じているけど、鹿目まどかは“尊い存在”だからオカズにできない。だから別の子をオカズにオナニーするけれど、なんとなく気持ちは晴れない、オナニーでスッキリできない……みたいになる。鹿目まどかをオナニーのオカズにしたとしても、それだけでも猛烈な罪悪感となる……。もしも話だよ、コレ。「ほむらちゃんって、すごいオナニーしそうだな」ってちょっとしか思ってないから。でも、これが本作で暁美ほむらが鹿目まどに対して感じている欲望と罪悪感の説明になる)

 あの世界において鹿目まどかを穢れなき乙女として演出し描いているのは暁美ほむらだし、暁美ほむらも鹿目まどかの前では自身を穢れなき姿でいようとする。巴マミの家でドンパチをはじめる前でも、鹿目まどかに対してだけは微笑みを見せているし、その後のシーンで血の付いた自分の顔を見せまいとしている。
 鹿目まどかを穢れなき完璧な美少女にするために、自分も取り繕うとする。その努力も暁美ほむらの変態性の一つ。鹿目まどかに対する猛烈な変態的な愛欲を持っているからこそ、鹿目まどかに対して徹底した配慮をする。

 それで結局のところ、この状況がキュゥべえの企みだったことが判明する。キュゥべえは濁ったグリーフシードが消失する謎を解明するため、暁美ほむらが話した「魔女」の存在とそれを救うとされる「鹿目まどか」の存在を確認するために、限界までグリーフシードが濁った暁美ほむらを周囲の社会から遮断したのだった。
 さて、魔女なるものは観測されるのか、鹿目まどかと呼ばれる女神は出現するのか……。
 これはキュゥべえの企みに思えて、実は暁美ほむらの企みだった。
 暁美ほむらは鹿目まどかが神となってこの世から消失するという結末を受け入れていなかった。鹿目まどかに対する変態的な愛欲は日に日に募っていき、鹿目まどかが作ったこの“美しい世界”を崩壊させてでも、取り戻したい。そのためには悪魔に堕ちてもいい……とすら考えていた。
 この想いの中で、暁美ほむらの人格に歪みが生じはじめる。鹿目まどかを理想の乙女として愛欲を越えて“信仰”すらし始めている暁美ほむら。その欲求をコントロールできず、世界を混沌に陥れてでも……という狂気に陥っている。
 その一方で、暁美ほむらはそう考える自分に対する後ろめたさ、自身を罰しようという意識も持っていて、それが自殺願望に向かっていく。自分がどこかの段階でミッションに失敗して死んでしまえば、鹿目まどかが作り上げたこの美しい世界を壊さずに済む……。
 鹿目まどかに会いたい。でも死んでしまえば、たいそれたこともせずに済む。だから計画も失敗してしまいたい。
 暁美ほむらは大きすぎる葛藤を抱えて、捻れた存在になってしまっている。

 最終的に、暁美ほむらは鹿目まどかに“対立”を宣言するような台詞を残して去って行く。鹿目まどかをこの世界に取り戻したのに、悪魔である暁美ほむらは「鹿目まどかの敵」でしかない。対立宣言であるはずなのに、その時の暁美ほむらの妙に寂しげな言い方……。
 大好きだった鹿目まどかを現世に連れ戻してきたのに、結果的に鹿目まどかの敵になってしまった自分。でも、心のどこかで鹿目まどかに滅ぼされるなら……殺されるならそれが本望。……といったところだろうか。

 エンドロール後では、暁美ほむらは「半分だけの世界」にいて、『くるみ割り人形』のバレエを踊り、そのまま転落してしまう。どうせ転落するなら夢を見たまま……。この作品を象徴するような最後だった。おそらくはこの世界の崩壊も、同じように暁美ほむらが崩壊して終わっていくのだろう……。誰からも「なぜ悪魔になってしまったのか」理由を知られることなく……。
 『魔法少女まどか☆マギカ』はテレビシリーズの時から哀しいお話がずっと続いていたけれど、その中でももっとも哀しい物語がこの劇場版。暁美ほむらという少女がただただ哀しい。テレビシリーズを通して鹿目まどかを守ろうと願い続けて、最終的に狂って、その世界を崩壊させてしまう。
 10年経って見返してみても、とんでもない境地を描き出した傑作だった。10年経ってもこの結末を越えるアニメは出てこなかった。

 やっぱりこの作品はブルーレイでもう一度観たい。配信だと動きの速いシーンはブロックノイズが出てしまう。美しい画面で、“理想化された可愛い鹿目まどか”の姿を見たい。暁美ほむらが抱いた願望世界の切れ端でも体験したい。

 これだけだと短いので、感想文をもう一つ。

劇場版 SHIROBAKO

 劇場版『魔法少女まどか☆マギカ』の「関連作品」として出てきた劇場版『SIROBAKO』。あ、こっちもprime会員無料になっていたのか。じゃあ観よう。
 『SIROBAKO』のテレビシリーズは2014~2015年。その劇場版が2020年。最近の劇場版はテレビシリーズがヒットして、その後急いで劇場版も作る……というパターンが多かったが、5年の時を経て劇場版が作られる……というのはケースとして珍しい。しかも、当時たしかに話題になった作品ではあるものの、“大ヒットアニメ”というほどではないこの作品が、このタイミングで劇場になる……と、ちょっと不思議な感じがする。この辺りの詳しい経緯は知らない。
(Wikipediaを見ると水島努監督があまりにも忙しく、次のスケジュールが抑えられるのがこの時期だった……と理由が書かれている)

 お話は、テレビシリーズの頃から4年ほどが過ぎている。テレビシリーズの時の奮闘で武蔵野アニメーションはヒット作に恵まれたが、しかしその後がいけなかった。次なる企画を立ち上げ、制作がだいぶ進行していたのに、まさかの制作元から予算が下りず頓挫。途中まで作っていた作品の制作費は入ってこない。作品の制作で様々なアニメ会社とも連携を取らなくてはいけないけれど、そちらに払うお金は全部借金で、ということになる。それ以上に、新しい作品に向けてモチベーションを高めていたスタッフの失望は大きく、これを切っ掛けに多くの人が武蔵野アニメーションから抜けてしまった。特にエースクラスのアニメーターは全員気持ちが折れてアニメから距離を置いてしまった。責任を取って社長は引退。武蔵野アニメーションは仕事もなければ力のあるアニメーターもいない、どうにもならない状況に陥っていた。
 たった1本の失敗で武蔵野アニメーションは迷走期に入ってしまう。資本力の弱いアニメ会社ゆえの苦悩である。
 たった1本の失敗の後、独力でリカバリができない。アニメ会社に独自の企画を進めるだけの資本力があれば話は違っていたけれど、そんなアニメ会社、業界内でもほぼない。実際、大ヒットアニメを作ったと思った会社が、その後ヒット作に恵まれず、やがて倒産……みたいな話はよくある。アニメ会社を維持しようと思ったら、コンスタントにヒット作を作らねばならないのだ。武蔵野アニメーションのように企業としての力が弱いところとなると、より立場が弱くなる。
(アニメ会社が倒産した場合、その会社が持っていた作品の権利はたいてい大手が引き取ることになる。これが続き、やがて一社だけが強い……という状況が業界内で作られてしまう)

 冒頭、ラジオ番組が流れているが、作品の世界ではアニメバブルは完全に終了し、週に放送されるアニメの数は数本。DVDも売れない。アニメラジオも予算がなくてゲストを呼べない。武蔵野アニメーションだけではなく、業界自体地盤沈下している状況になっている。
 現実世界ではアニメは本数は多いものの、「これ内容どうなの?」という作品は確かに増えつつあるのを実感として感じているので、あながち虚構だけの話とはいいがたいのが怖いところだ。
 同じく冒頭シーン、武蔵野アニメの制作進行の車の横に、他アニメ会社の車が並んで、信号前で挑発を受けるのだけど、それには乗らない。競い合おうという情熱すらもう失っていることがわかる。

 そんな武蔵野アニメーションに「劇場アニメーションを作らないか」という話が舞い込んでくる。ただし、その劇場アニメはもともと別会社で企画進行していたものだったが、発表から数年経った後でも脚本も絵コンテもキャラデザインも一切進行しておらず、誰もやる気のない企画だった。しかも告知していた劇場公開まで9ヶ月後……。
 要するに「クソ仕事」を押しつけられたわけだ。
 劇場映画の制作には最低でも2年かかる。手間暇かけた大作になると5年。それを9ヶ月でやらないか……という無茶ぶり。
 しかし主人公であり作品のプロデューサーを務める宮森あおいは「やってやる」と意欲を燃やす。これを成功させれば武蔵野アニメーションを立て直せるかも知れない。クソ仕事でもモノにできれば転機になる。だが、件の劇場映画企画『空中強襲揚陸艦SIVA』は原作無しのオリジナルアニメ企画。脚本も絵コンテも一切ない……という状況下で、わずか9ヶ月で完成させるという無謀なミッションだった。

 『SIROBAKO』の面白いところは、「業界内あるある」をアニメのストーリーにうまく落とし込んでいること。中には実在人物によく似た人が出てきて、虚構ではなく「実際あったこと」を語ったりする場面もある。嘘みたいだけど実際にあったお話も多数とりあげられ、それが虚構と同時に語られ、作品として面白おかしく語られるためにどこまで本当かどうかわからない作りになっている。それが『SIROBAKO』の面白さになっている。

 さて、本作はとある会社のクソプロデューサーからクソ仕事を押しつけられる……というところから始まるわけだが……。
 アニメの業界、クソプロデューサーってやっぱりいるらしい。この辺りは私も“話”として断片的に聞いた、くらいのものでしかないけど。
 別会社の企画を妨害するために、企画を立ち上げる前に絵のうまいアニメーターのスケジュールだけを押さえたりするとか……。業界の中でも「本当に絵の上手いアニメーター」なんてものは少数なので、その人たちを押さえておけばあちらの会社の作品クオリティが落ちる……そういう妨害の仕方をするプロデューサーもいるそうだ。
 そもそも作品のクオリティに興味が全くなく、企画さえ進めばなんでもいい……というプロデューサーもいる。プロデューサーは自分のやりたい企画を通すことで自己実現を達成させる職種で、しかしこの要件の中に“クオリティ”の概念のない人もわりといる……らしい。評判のよかったアニメの第2期を、明らかに作品傾向の違う別の会社で作らせちゃったりとか……。
(プロデューサーには2種類いて、一つ目は自分のやりたい企画を通すことに自己実現を見出す人。もう一つは才能ある作家を立てたい、作家を補佐したい……そこで自己実現を見出す人)

 クソみたいなアニメが乱立するのも、クソプロデューサーが背後で動いているから。それで犠牲になるのは現場。矢面に立たされるのはトカゲの尻尾扱いされる脚本家や演出家。クソプロデューサーはアニメファンも名前を確認しないから、無罪放免で業界内に生存。いっそ、クソアニメのプロデューサーの名前、リストアップしてたほうがいいかも知れないね。
 『SIROBAKO』は嘘みたいだけど本当にあったこと、をアニメ作品として面白おかしく描く……というのが趣旨だから、本作のように無計画に企画を立ち上げて、ヤバくなったら弱小の会社に押しつけて逃亡する……そういうクソプロデューサーももしかしたら業界の歴史の中にいたのかもしれない。
 この辺りは、もしそうだったとしても「語られないお話」だから、なんとも言えない。

 本当いうと、「ひょっとしてあのアニメのことを語ってるのかな……」と頭の中にちらっと思い浮かぶ作品があるのだけど……。余計なことは言わないほうがいいでしょう。

 そういう状況をあえてキャラクター達を置き、それをひっくり返して作品を作るぞ! ……というところで面白さを見出そうとしている。この辺りの導入部は非常に良い。

 制作発表から数ヶ月経っても脚本も絵コンテもキャラデザも進行していない劇場アニメ……。
 という話を聞くと、もはやトリビアでもなんでもなく有名なあの作品が思い浮かぶ。押井守監督初劇場作品『うる星やつら オンリー・ユー』だ。
 『うる星やつら』劇場映画第1作だけど、もともとは押井守監督は「テレビチーフ」で劇場にはノータッチ。劇場版は別のスタッフで制作することになっていた……はずだった。
 ところが数ヶ月後、押井守監督が「劇場版の監督が逃げちゃった」という話を聞いて現場に入ってみると、なんと脚本なし、絵コンテなし、キャラクターは高橋留美子デザインのエルという名前のキャラ絵が1枚あるだけ。設定すらできていなかった。
 たしか、これが劇場公開まであと3ヶ月とかいう状況だったかな? そこからは想像絶する修羅場が展開されて、どうにか劇場公開日までこぎつけたものの、自分で作品を観て愕然とした……というのが押井守映画の入門話。この経験があって名作『ビューティフルドリーマー』が生まれたのはあまりにも有名な話。アニメファンなら誰もが知る、当時のトンデモ話の一つだね。

 劇場版『SIROBAKO』がどんなお話をモチーフにしているのか、まったくの虚構なのかわからないけれど、とりあえず劇場映画を制作することになり、プロデューサーとなった宮森あおいは作品を完成させるために、様々に手を尽くすのだった。
 その劇場映画を引き受けるのだった……というエピソードまでが前半の30分。そこから、武蔵野アニメーションから去って行ったアニメーターたちを回って、協力を求めていく……という展開があるのだが、これが30分。
 うーん……冒頭の展開、ちょっと時間が掛かりすぎている気がしている。宮森あおいが決意を固めるために、唄うシーンがあるけれど、あのシーン必要だったか……という気もするし。その後、テレビシリーズに登場したキャラクター達が再集結する。テレビシリーズのキャラクター達が再び顔を見せられるし、かつての仲間達が再集結する……というドラマ展開になっているけど……なんとなく盛り上がらない。
 なんとなく「あれ?」という感じが全体につきまとっている。「まったく面白くない」というわけではもちろんないし、むしろ面白く観られるんだけど、どこかお話にリズム感がない、どこか盛り上がりに欠ける。それがどうしてなのかわからない。劇場映画を観ている感じではなく、2時間のテレビアニメを観ているような感じ。どうしてそう思ったのか、自分でもよくわからないけど……。

 特に引っ掛かったのはクオリティ面で、作画にしても背景美術にしても、「あれ? PAWORKSってこんな感じだっけ?」という気がする。PAWORKS作品は数年観てなかったのだけど、私の記憶ではもっともっとクオリティの高いものを制作していたように思える。特に背景は、もっとガツガツに描いていて、さらに丁寧な撮影が載っていたはず……。
 ところが劇場版『SIROBAKO』はどのシーンも背景がのっぺりしている。立体感もないし、パースも怪しい。色彩が美しくない。
 キャラ作画ももっと美しい絵を描いていた記憶があるんだけど……。なんだかアニメーションがカクカクしているように見えちゃって……。
 数年観ていない間に、私のほうが意識が変わっちゃったのかな……。最近のPAWORKS作品を観ていなかったから、なんとも言えない。

 絵にしてもストーリーにしても「あれ?」という感じがずっとつきまとう。個々のエピソードが盛り上がらないし、「それ必要?」というエピソードもちらほら。「子供動画教室」のシーンとかいらないんじゃない?
 テレビシリーズの時には、毎回のエピソード最後に、その回で制作している作品の成果物が公開されて、これが区切りになっていた。劇場版も実はこれを踏襲し、最後の最後でシーンを作り直す、公開ギリギリまでクオリティアップを目指す……というこれが最終的なドラマになっている。これがラストに向けた感動的なドラマになっていない。テレビのフォーマットを劇場向けにアップデートしようとしたが、これがうまくいっていないように感じられた。
 もう一つは和装姿になってのカチコミ。現実なのか虚構なのかわからないシーン作りは、『SIROBAKO』の本質的なテーマであるし、テレビシリーズ版にもあった描写だけど、こちらの描写もテレビシリーズの時のほうが生き生きしていたような記憶がある。劇場版のカチコミシーンは、盛り上がらないんだ……。絵の力に精彩さがなく、全体に嘘っぽさがつきまとっている。こういう嘘を、その瞬間だけは本当っぽく描いてこそ、アニメ的な面白さが出てくるのだけど、そう描かれてはいない。ここを見ている時もなんとなく「あれ?」という感じになる。

 出来がよくないわけでもないけれど、どことなく「いまいち」という感じの抜けない劇場版『SIROBAKO』。決して悪くないし、楽しめる1本になってはいるのだけど、どこか引っ掛かる作品。「SIROBAKOってこうだっけ?」「SIROBAKOってこうじゃなかったような……」そんな感じがずっとする。『SIROBAKO』を見ているはずなのに、なんとなく『SIROBAKO』じゃない気がする。どうしてそう思ったのか、私にもわからず……。
 これはもう一回観た方が良いのかな……?


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