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エンタメとはピンチと脱出

前置き

 みなさん、こんにちわ。とらつぐみです。
 私はブログで度々「エンターテインメントの本質は脱出だ」と、「前にブログで書いたけれども……」という前置きをして話をするのだけど、さて、その「前にブログで……」というのはどれだけ前のことだろうか?
 確認してみると、なんと2013年8月23日記事だった。8年前! こりゃ……ほとんどの人は私がそんな話を書いていたことを知らないわ。「へえ、そんなこと書いてたんだ……」と探してもまず見つからないくらい古い。かくいう、私も自分で探す時ちょっと手間取ったというくらい昔の記事だった。
 それに8年前に自分が書いたものを確認してみると、当時とは微妙に考え方が変わっているものもあったし、内容自体も一部アップデートを加えて再掲載することにした。

 件の記事だけど、元になっているテキスト文章が私のパソコン内にあるはずだ……と探してみたが見つからず。それで、自分で書いたブログ記事を元に、作り直すことにした。まさかの自分のブログを元に書き直しである。そんな日が来るとは……。

元記事

エンターテインメントとはピンチと脱出である

 面白い作品に理由があるように、面白くない作品にも相応の理由がある。
 なぜ面白くないのか……「そんなのはわかりきっている。面白くないからだ」と多くの人が答えるだろう。しかしそれは、答えているとは言えない。また面白くない理由を理解しているとは言えない。
 それでは「面白くない作品について考える必要は?」という問いどう答えるのか。それは自分が同じ失敗を犯さないためだ。「駄作が犯しているような失敗を、自分がするわけはないだろう」……と作り手になったばかりの作家はこう思い込む。自分の才能を疑ってないからだ。しかし残念ながら、「こんな失敗誰が犯すんだ」という失敗を、ほとんどの作家は犯すのだ。
 だからこそ、大成功した作品から学ぶことがあるように、大失敗した作品からも学ぶことがある。失敗作は考える機会になるから、見る必要があるのだ。私が時折「失敗作も見よ」と言っているのはそういう理由からだ。

 では成功作と失敗作の違いはどこに現れるのか?
 そう問われた時、私は「ピンチからの脱出」と答える。

 主人公がどのような課題・問題に直面するか。問題をいかにしてくぐり抜けるのか、ここを上手く描けているかどうかで、面白さの質が変わってくる。

 例を一つ挙げよう。

 主人公はトイレに行きたい。かなりヤバい。しかしどこのトイレも使用不能だ。
 さあ、どうする?

 ここで誰も思いつかないような鮮やかな解決法を示すことができれば、その作品は優秀だといえる。ここに独創的なアイデアがあり、かつ納得できる合理性を示せば、こんなしょーもない課題であっても「おお!」と思わせることができる。
 こういったアイデアと合理性を連続的にスケール感たっぷりに描くことができれば、それは間違いなくエンターテインメントの傑作。これができていない作品が駄作だ……ということになる。
 「簡単に思いつくアイデアとは、誰もが思いつくアイデアだ」――プロの作家が素人と同じレベルのアイデアで物語を書いてはならない。簡単に思いつくアイデアがマズいのは、それは「似たようなことを考える人が何十、何百もいる」からだ。例え正解であっても、それは意表を突く素晴らしいアイデアとは言えない。主人公が直面する問題と、その解決方法を安易に考えてはならない。

 いっそ、ピンチの状況だけを提示して、読者にどうやって切り抜けさせるか、考えよ……というコンテストをやってみるのも面白かも知れない。誰も思いつけない回答をして見せたものが優勝……というルールで。
 創作を教えている学校で、生徒にピンチの状況だけを示して、「解いてみせろ」という課題をやってみるのもいいかも知れない。
 黒澤明監督の映画『隠し砦の三悪人』はまさにこの方法で創り出された。
 山名家との戦いに敗れた秋月家。秋月家の雪姫は山名家の手から逃れ、とある隠し砦に潜んでいた。雪姫は秋月家再興のために、隠し持っている大量の黄金とともに友好国早川領へ行かねばならない。しかしその途上の関所は山名家ががっちり監視しているし、山名家は雪姫の生存を察知していて狙っている……。
 さあどうする?
 これが『隠し砦の三悪人』の物語だ。最初からピンチの状況が示されて、そこからいかに脱出・逃亡を繰り広げるか。その方法を巡り、制作時は毎日脚本家数名でひたすら議論したそうだ。そうした作品が面白くならないわけがない。

 しかし、最初に示した「トイレに行きたいがどこも使用不能で…」というお話を作り、鮮やか脱出法を示したところで、それはいわゆるな「傑作」にはなりえない。人を感動させる作品にはならない。せいぜいギャグドラマ程度だ。ではどうすれば、誰もが感動できる、優れた作品に化けさせることができるのか……それを考えていこう。

① ピンチの切り抜け方がおかしい。
 まず初歩の話。どうして相手に面白いと感じさせることができないのか。それはその解決方法が、「それはない」と思われてしまったからだ。それはおかしい。道理に合わない。ご都合主義的だ。あまりにも飛躍させすぎだ。総じて腑に落ちない。つまり、「合理性」に欠ける。こういう作品は駄作扱いされる。

② 主人公の選択が正しいとは思えない。
 読者の目線で、「どうして主人公はここで○○○をしないんだ?」と思われてはいけない。主人公の行動が間抜けに思えてしまう。やはり主人公の行動や選択に、合理性と納得感がなければならない。
 主人公の行動が常に利口で、正しく、読者の想定を必ず少し上を進んでいる状態が望ましい。間抜けに見える主人公は感情移入しづらい。読者の想像を越えた脱出法が提示された瞬間、「おお!」という感動に繋がる。

③ それはズルい……と思われてはいけない。
 斬新な脱出方法を示したとして、「いや、それはない」と思われてはいけない。例えば『隠し砦の三悪人』の例で、「空を飛んで逃げればいいんだ」……みたいなアイデアを出してはいけない。必ずその世界観の中にあるもの、登場人物が有している能力の範囲内でアイデアを出さねばならない。
 そのための設定提示は事前に開示しておかなければならない。後になって、「実は主人公は空を飛ぶ能力があったのだ!」なんてやられても興醒め。ミステリは解決編に移る前に、必ず読者に対して事件を解くための全要素を開示する。どんなエンタメでも、それと同じことを考えて書いた方が良い。どんなときも作者と読者が持っている情報量はフェアであったほうがよい。もちろん、フェアであったほうがいいが、答えを悟られてはならない。

④ そもそも、はじめに設定した状況自体がおかしい場合。
 その状況はおかしい。切実さが伝わらない。状況がいまいち理解できない……。こういう場合は状況の設定方法として相応しくない。読者の経験的にも伝わりやすいものを状況として置いた方が良い。
 例えば『鬼滅の刃』には最初に妹が鬼にされてしまう、だから妹を元に戻す方法を探すために旅に出て鬼殺隊になる……これはスッと理解できる。「家族が殺され、妹が怪物にされた」……これはどんな文化圏の人が見ても、心情で理解できる状況設定。こういった設定方法は正しい。
 また読者目線で「なんだその程度か」と思われてもいけない。切実さが伝わらなくてはならない。その主人公において、もはや回避不能、その運命を受け入れなければならないんだ……この切実さが感じるくらいがいい。やはり『鬼滅の刃』の例に挙げると、「愛するべき家族が皆殺しにされる」は間違いなく主人公にとって切実、主人公にとって回避不能の運命が決定した瞬間だ。状況が主人公を否応なく強制する……その力強さがなければならない。この要件をすべて満たしているから『鬼滅の刃』の導入部は完璧だと言える。

 以上に挙げた例は、状況設定の基本だ。さらに状況と主人公の関係性について考えていかねばならない。


① そのピンチを解くのが主人公でなければならない理由。
 目の前に提示されたピンチ! ……でも別に主人公じゃなくても、別の誰かが代わりに解けばいいんじゃない? と思われては、物語としては弱い。
 事件が起きた! ……でも警察に任せればいいや……みたいな話に、読者は魅力を感じない。事件が起き、その事件を主人公が解かねばならない理由を提示し、状況が主人公を強制しなくてはならない。
 ただし、脇役を立たせるために、「主人公ではその問題は解けないが、脇役であれば解ける」という展開を作るのは良い。うまく書けば、主人公と脇役の間でチーム感が生まれるだろう。

② そのピンチを解くことが、主人公の葛藤と関連していることが望ましい。
 これは「絶対にそうではならない」というほどの重要度はないが、やはりそうであったほうが望ましい。
 例えば、主人公が何かしらの心の傷を負っている。そこに提示されたピンチ。これが主人公の過去に体験した事件との関連を持ち、トラウマと向き合う結果となり、そのピンチを乗り越えることが主人公の精神的な回復にも繋がる……というプロットだと、それは「ピンチを鮮やかに切り抜けてスッキリする」物語という以上に、感動のポイントにすらなる。
 単に「ピンチに陥った」という状況設定的なものだけがあるだけだと、それは「ゲーム的」になってしまう。ただそれを乗り越えた……というだけのお話になって、感動ドラマにはならない。ピンチを乗り越えることで、主人公の成長と解放が描かれると、物語はより面白くなる。ピンチとドラマはリンクしていたほうが良く、そのドラマが主人公の内面に絡んでくると物語全体の強さが増す。

 要するに提示した状況と主人公の間に強い関連性を持っていること。これは物語全体の主人公の重要さにも関わってくる。この重要度の高さによって「宿命」と呼ばれるものになる。もしもこの重要度が主人公よりも脇役のほうが強く持っていた場合、主人公を練り直したほうがいいだろう。

 以上に挙げたポイントを抑えれば、駄作になることはほとんどないと思われるが、それでも「傑作」と呼ばれるものの間にはまだ何かありそうな感じがする。それはおそらく、次のようなポイントではないか。

① 誰にでも了解できること。感覚が伝わること。
 提示する状況が誰にでも了解できること。ピンチに陥るが、その内容が誰にでも簡単にわかるものであればいい。だが「簡単であればいい」とも違う。シンプルだけど、誰にでも状況がわかり、簡単ではないものがいい。ここでは伝える能力が試される。これが伝わらないと、主人公がどこに向かっているのかわからなくなる。さらに付け加えると、一見すると無理・不可能な問題であった方がよりよい。一見すると不可能に思えるミッションに向き合う主人公を見ると、読者は気持ちを燃えあがらせる。

② でかいほうがいい。
 大風呂敷を広げよ! その問題がどんな事態を引き起こすのか。国家が大パニックとか、世界の終焉だとか……それくらい物語の風呂敷は大きい方がいい。そういった国家の危機とか世界の終焉といったお話に、真実味が感じられるようなお話になると面白くなるはずだ。
 ただし、国家の危機や世界の周辺のような巨大な状況はリアリティを出すのが難しい。ここをうまく描けなければ、即座にコメディになる。大風呂敷を広げる時には、相応の注意を払わなくてはならない。
 いきなり大風呂敷を広げよ……という話をしたが、それが主人公にとって切実さが感じられなければ意味がない。「世界が崩壊する」……といっても主人公にとっては大きすぎて「どうでもいいや」みたいに感じられてはいけない。主人公ではなく、別の誰かがやればいいお話だ……ということになったら、物語としての成立しなくなってしまう。
 主人公にとって切実だ、と感じられることが一番大きな問題だから、場合によっては風呂敷のサイズは「家族規模」でもいい。「家族の危機に対して主人公はどうするか」みたいは話でも、主人公の心情とうまく結びついていれば、強いドラマになる。

③ 個性的であれ。
 ピンチに陥る……その状況が今まで誰も思いつかなかったような内容であった方が面白い。誰にでも思いつくようなピンチは、つまり手垢の付きまくったものだから、そこをいくら工夫しても新鮮さに欠ける。「簡単に思いつくアイデアとは誰でも思いつくアイデア」だ。いくら面白くしても、誰も見向きもしてくれない。個性的な状況設定であれば、解き方にも個性が出るはずだ。題材にはこだわったほうがいい。

④ 絶体絶命!
「こんなピンチを乗り越えるなんて絶対不可能だ! もうどうしようもない!」
 ……そう思わせたほうが良い。「もうダメだ!」と一瞬思わせ、そこから鮮やかな離脱を示してみせる。その時、見る側は強烈な解放感を得ることができる。強烈なピンチは、相応の緊張感に繋がり、そこからの脱出が解放感に繋がる。これこそ、エンターテインメントの醍醐味だろう。

⑤ 時代とリンクしていたほうがいい。
 物語中に提示された問題・課題が時代の精神と結びついていればより良い。そうすると、見ている側はあたかも「自分のこと」のように思い、作品に対する集中の仕方が変わる。物語中に示されている問題や、登場人物の葛藤が、現代では時代遅れの産物だったら、それに対して見る側が感情移入して、切実に感じたりすることはない。
 例えば『デスストランディング』というゲームは未来のアメリカを舞台にしたSFであるが、コミュニティごとに「分断」された状況は、現代の社会や、現代人の思想に対する風刺でありメッセージとなっていた。虚構でありながら、今の時代の人々に提示されたメッセージにもなっている……そういう作品は、単にその作品が面白い、という感慨を超えて、時代のシンボルとなる場合がある。
 スタンリー・キューブリックは「売れる映画」とは「人々が不安になる映画」と語った。『ロリータ』はその時代、あるいは文化圏でタブーとなっている題材だった。だから当時の人は不安になり、「いったいどういう内容なのだろう」と観に行った。「世界の滅亡!」なんてお話をいくらやっても、そこに切実な「怖さ」が感じられていなければならない。無闇に風呂敷を広げる過ぎると、テーマにリアリティが感じられなくて、嘘くさい物語になる。その時代の人々が何を不安に感じ、怯えているのか……それを見抜いてすくい取り、物語に仕上げる。その勘の良さも必要だ。

⑥ 格好いい! 可愛い!
 やはり最終的に、「格好いい」か「可愛いか」は絶対的な物差しとなる。格好いいから憧れる。可愛いから愛おしくなる。美しいから陶酔する。イメージに魅力を感じるかどうかは、究極的には格好いいか可愛いか。どんなに面白く作っていても、格好よく描かれていなければ、面白さは魅力として立ち上がってこない。作品を最終的にアウトプットする時はとにかくも格好よく、可愛く描くこと!

 作り手は物語の主人公をピンチに追いやり、状況的にも精神的にも追い詰めていかなければならない。まずその状況をわかりやすく伝えること。その状況が回避できないと、途方もないヤバい結末に繋がることを示唆すること。これができていれば、次第に読者は物語の主人公と同じ目線になって追いかけていくようになる。主人公と同じように読者も汗をかき、ハラハラしながら、物語を追いかけてくれるようになる。すでに挙げたが、『鬼滅の刃』がその要件を満たす作品だ。

 そこで示すのはいかに脱出の瞬間を面白く描くか。いかにして目の前の大きな問題に対して、解決法を示していくのか。これがうまく描けていれば読者の気持ちをずっと惹きつけられるし、その気持ちの度合いが大きければその作品は傑作と呼ばれるようになる。
 とどのつまり、優れたエンターテインメントとは「脱出劇」なのである。一見すると四方八方手詰まりの状況。どうにもならない……。そんな状況から、マジックのように脱出の瞬間を披露してみせる。その瞬間、読者は驚きと喝采を挙げるのだ。
 もはやアニメ界隈としては「一昔前の作品」と呼ばれるようになったが『魔法少女まどか☆マギカ』のラストが素晴らしかった。「こんな複雑なロジックを解決させるなんて不可能だ! バッドエンドしかあり得ない!」と……みんなが結末を予想し合って盛り上がっているところに、さらに誰もが思いもしなかった回答を示してみせた。それが感動的な自己犠牲と、素晴らしいドラマと結びついていた。だからこそ、『魔法少女まどか☆マギカ』は時代を代表する名作になり得た。優れたエンタメとしての全要件を満たしていたから、傑作になり得たのである。

 優れた傑作や売れる作品……それはスター俳優とか大予算ではない。面白いかどうかが全てであって、どうやれば面白くなるか……はここまでで示したとおりだ。まず物語の主人公が「怖い」と感じなければならない。「不安」を感じさせなければならない。何かしらの「絶望」に追い込まれなければならない。そしてその主人公が感じている恐怖や不安を、読者も感じていなければならない。どうしようもない恐怖と不安を提示し、それから鮮やかに脱出してみせる。解放されていく。絶望を乗り越えたから感動する。そこに、主人公が葛藤を乗り越える物語を同時に描くと、ドラマとしての強さが増す。もちろん、それは格好よく、可愛く、美しいものであればより良い。その全要件が全て満たされていたら、その作品は絶対に面白くなるはずだし、絶対に売れるはずだ。
 だがそこまできちんと描かれている作品にはなかなかお目にかかることができない。そんな作品が現れるのはいつも数年に1本。なぜなら、言葉で言うより難しいからだ。なかなかできないから、うまくいってない作品が世に氾濫する。全要件をきちんと満たす作品を作ろうと思ったら、作り手も感性を鋭くさせ、持っている知識・知性をすべて注がなくてはならない。
 正直なところ、今回書いたような話は、ほとんど全ての作家が知っていることだ。改めて言うような話でもない。知っているけどできない……だから難しい。だけど、改めて「当たり前のこと」と言わず言語化し、意識しながら物語を描けばよりよくなのではないだろうか――そう願いを込めてここに記事を残しておく。


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